散歩は純粋な遠回りである

散歩というのは基本的に出発点に戻ってくるものだから、どこをどう通っても遠回りしたことになる。散歩で近道することを考えたら、出発点から一歩も動かないのが最も近道だ。つまり近道を求めるなら散歩はできないのである。近道というのは何か他の目的のために移動の効率を追求することだが、散歩には目的がない。散歩は何か他の目的のための手段ではなくて、それ自体が目的なのだ。散歩は遠回りの追求である。

目的があると、ちゃんと目的を達成しなくてはならないので、気楽じゃない。目的が無い方が気楽だ。散歩は目的がないからいいのだ。しかし通勤とか買い物とかの目的があっても移動の過程を楽しむことができたら散歩みたいなものである。ただその場合は純粋な散歩ではなく「散歩がてら」と言う。あまり遠回りはしていられないから、仮想的に散歩として回りを眺めたりしてみるわけである。つまり意識の問題なのだ。散歩にとって大事なのは目的の有無ではなく過程を楽しんでいるかどうかである。

目的がない方が気楽だとは言っても、目的なしに遠回りするのは結構大変だ。というかメンドクサイ。目的がないと通り道をいちいち考えなくてはならないからだ。いや、本当は考えずにいきあたりばったりでいいのだけど、それで楽しいかどうかは判らない。いきあたりばったりで楽しいようになるためには年季がいる。純粋な散歩よりも目的のある「散歩がてら」の方が行き先を考えずにすむからラクだということもある。だいたいそんなに散歩ばかりしてられるものではない。

ともかく、散歩の基本は元に戻るということにある。考えてみれば日々の生活というのも元に戻るのは同じだ。普通、我々は毎日寝床から出発して寝床に戻る。旅行というのもそうだ。自分の家から出発して自分の家に戻る。そういうのは散歩と同じで過程を楽しむものなのだ。しかし我々は引っ越したり仕事を変えたりもする。わざわざ元に戻らないようにすることは色々あるが、そこには目的意識が働いていると考えられる。そういうのは全て「散歩がてら」と捉えることができる。

目的意識が働いていると気楽じゃなくなる。そして目的を持つのは元に戻りたくないというのに近い。しかしどんな生活を送ろうと、一生を通して見たら最初と最後は同じようなもんである。我々は意識のない状態から出発して意識のない状態に戻る。つまりどんなに遠回りしても元に戻ってくる散歩のようなものだ。そこにどんな目的を設定しようと、それは「散歩がてら」なのである。設定した目的を達成するのが全てではなく、できるだけ遠回りして気楽にやるのが目的みたいなもんである。そして散歩ばかりしている人が一番近道に詳しくなるに違いない。