仮想的夏休み

が鳴いている期間というのは、どうしても夏休み気分になってしまう。これは子供の頃に身に付いた感覚だからしょうがない。でも、僕はイイ歳の会社員で、そんなに長い夏休みはないから夏の間も働く。「夏休みじゃないから働く」というのは当たり前だけど、それは「意識と行動の単純な連動」だからリラックス理論に反する。当たり前のことをやっていたのではリラックスできないのだ。そこで、僕はその期間を勝手に夏休みだと考えることにした。考えるだけなので「仮想的夏休み」である。

蝉が鳴いている間は夏休みだと考えるわけだが、だからと言って仕事を休むわけではないし、短パンをはくわけでもないし、昼寝をするわけでもない。今までどおりに働くのである。つまり「夏休みだけど働く」ということになる。「意識と行動」を切り離すわけだ。なんでそんなややこしくて無意味なことを考えるのか。それは、夏休みを取り戻す良い方法を他に思い付かないからであり、無意味なことをするのが休むということだからだ。

自分の意識だけを夏休みに変えても、仕事場には「休みじゃないんだぞー」という雰囲気が漂っている(当たり前だ)。それに、会社は冷房が効いていて寒いくらいなので、全然夏休みという感じがしない。そんなところで仕事をしていると「今は仮想的に夏休みである」という意識がぼやけてくる。そこで、仕事の合間に窓から入道雲を探したり、閉め切った窓を通して聞こえてくるセミの声に耳を澄ませたりする。そうやって、夏休みに対する想像をかきたてる必要がある。

何か、アホなことをやっているような気もするが、そうやって夏休みについての妄想を逞しくしていくと「夏休みだったら休んでいいはずだ」という気持ちも湧いてくる。ところが、仮想的夏休みというのは妄想に過ぎないから、そんなことで休んでいたのでは食べていけない。では一体、仮想的夏休みについて考えることに何の得があるのか。それは気分の問題である。リラックスというのは気分の問題だから、それでいいのだ。

夕方になったらなるべく早く家に帰って子どもと近所の公園に蝉取りに行ったりする。晩ご飯を食べたら花火を2、3本したりもする。子供はそんなことでも結構嬉しそうである。暑いけどクーラーなんか無しで寝る。窓は全開である。子供と寝ころんで月を見たりしていると「やっぱり夏休みだなー」という気分になる。この気分を想像力だけでなんとか次の夜まで持続できたら、「休まずして夏休み気分」という状態が得られる。以上が、僕のリラックス理論に基く仮想的夏休み計画です。