ロングバケーション

「梅雨が明けた」などということは、わざわざ気象台の人に言われなくてもが鳴き始めるのですぐわかるのだ。ビールがやたらとうまくなることでもわかる。とにかく暑さが一段階シフトアップするので暑くてやってられない...と感じるのは自然なことである。したがって、僕は「蝉が鳴いている間はバケーションにするべきだ」と考えるものである。実際にはそうもいかないので、お気楽論的には仮想的夏休みという概念を提唱するわけである。

vacatioinはvacant(空っぽ)から来ているようなので、バケーションというのはすることがない状態のことだろう。何もしないのがバケーションである。では、何もしないとはどういう状態であるのか。何もしないとは死んでいることだろうか。「死はバケーションである」とか言ってみるとちょっと文学的だが、「バケーションは死である」というのは違うだろう。

何もしないというのは生命活動を停止するのではなく、意識的な活動の停止である。意識的な活動に一所懸命になっている時は、自分の活動のほとんど全てが意識的活動であるかのように錯覚してしまうが、意識的活動を停止してみるとそうじゃないことがじわじわと感じられる。意識的活動以外にも自分の活動というのがある。というか、実はそっちの方がずっと多様であるということを思い出すのがバケーションである。バケーションが終わるとイヤなのは、一様な意識的世界に帰らなくてはならないからだ。意識的世界は窮屈なのだ。

さて、「何もしない」というのを数で表すとゼロである。X+0=X、つまり何かにゼロを加えても元のままである。「仕事」に「何もしない」を加えても「仕事」である(「仕事をしない」ではないことに注意)。仕事をしながら同時に「何もしない」をする、というのが仮想的夏休みである。穴の周りに衣をつけて揚げたものがドーナツであるのと同じようなものである。仕事中を仮想的バケーションで過ごすと休暇中のリアルバケーションと繋がってバケーションが終わらないのだ。そうすると、意識的世界に閉じ込められることがなくなる。お気楽とは一年中頭の中をバケーションにすることである。ちょっとアホみたいではあるけど、しょうがない。

 → 仮想的夏休み