現実は不確実である

この世に絶対確実なことなんか無い。昔、誰かに「人間がいつか死ぬということだけは確実なんだよ」と言われてなるほどと思ったことがあるが、これは死という言葉のコワさを利用したトリックである。その時は「」という言葉にビビって簡単に納得してしまったが、よく考えてみればこの話はおかしい。

「人間はいつか死ぬ」の「いつか」とは「いつかはわからないが」という意味だし、「どういう風に死ぬのか」ということも全然分からない。つまり、「人間がいつどういう風に死ぬか」ということについて確実なことは全然分からないのである。いつどんな風に起きるのか分からないことを「確実だ」と言うなら不確実なことなんか無いことになってしまうが、そんなアホなことはない。この世は不確実なことだらけである。「人間はいつか死ぬ」というのが確実そうに聞こえるのは具体性に欠けているからであって、具体的な現実に関しては何も確実なことは言えないのである。

そういうわけで絶対確実なことなんか何もないので、ものを考えようとすると常に「具体的な詳細についてはよくわからないが」という部分が生じる。そういうよくわからない部分は切り捨ててしまった方が確実なことが言えるのだが、その確実な話は具体性に欠けることになる。具体性に欠ける話はエラそうな割に生活の役に立たない。我々の現実の生活というのは「よくわからない具体的な詳細」から成り立っている。生活というのは「よくわからないことをよくわからないまま把握する」ようなものである。

我々が何かを考えようとする時には、考えていることの中によくわからない部分がどうしても含まれてしまう。それと同時に、考えている自分が「いつどうなるかはわからない」ということも考える必要がある。つまり、我々の内側にも外側にもよくわからない部分があるということである。我々はドーナツみたいなものである。そう考えると何か怖いような気もしてくるが、具体的な現実の生活を離れてものを考えるとそういうことになるのである。生活というのはメンドクサイものだが、そんなに怖いものではない。ではなぜ生活がメンドクサイのかというと、生活とは不確実な現実に対処し続けることだからだ。