ドーナツには穴があるか?

我々は「ドーナツには穴がある」と表現するが、これは英語で「誰も知らない」という否定的な内容を「nobody knows」とか「God only knows」と肯定形で表現するのに似ている。穴の部分にはドーナツの成分が無いのだから、穴はドーナツの一部ではない。つまり、「ドーナツには穴がある」という表現は「無いこと」を「ある」という形で表現しているのである。

食べかけて「C」の形になってしまったドーナツにはもう穴はないが、ドーナツであることに変わりはない。それは、我々がそのドーナツに穴があったことを覚えているからだ。ところで、その場合「穴がなくなる」とはどういうことだろう。「ドーナツは中央部が欠落している」とも言えるが、穴のなくなったドーナツは欠落がなくなったわけだ。でも、その欠落が何かで埋められたのではない。

ドーナツには穴だけではなく「周辺」もある。ドーナツの穴がドーナツではないように、ドーナツの周りの空間もドーナツではない。ドーナツは中央だけじゃなくて周辺だって欠落しているのである。なんで「ドーナツには穴がある」とだけ言って周辺については誰も触れないのかというと、ドーナツに限らずどんなモノでも周辺部は欠落しているからである。モノの周囲の空間がそのモノではないのは当り前なのだ。ドーナツは周辺部以外に欠落があるのが珍しいので、「ドーナツには穴がある」と言われるのである。

ドーナツを食べかけて「C」の形になると、中央が周辺とつながってしまって「周辺部にだけ欠落がある」という普通のモノになってしまう。でも、それが相変わらすドーナツであるのは、我々の中に「穴」の記憶が残っているからだ。我々は「無いこと」を記憶することができるのである。そもそも記憶というのは「今ここに無いものごと」だから一種の欠落なのだ。我々の中に現実の欠落として記憶があるように、ドーナツには穴がある。

ところで、ドーナツの表面はどこにも切れ目がないのだから、立体的に考えるとドーナツの穴と周辺は(食べる前から)つながっている。ドーナツは周辺が欠落しているだけで、それ以外の欠落は特にないのである。つまり我々が「穴」だと思っている部分はドーナツの周辺の一部なのだ。だから、ドーナツには穴はない。ドーナツには穴があるとしか思えないが、それは錯覚なのである。我々が「ドーナツには穴がある」と思ってしまうのは、穴を通して見える景色がドーナツによって周りの景色から切り取られているように見えるからだ。我々は視覚に囚われ過ぎているのである。

でも、本当は、無いものを仮想的に「ある」と表現するのがコトバなのだから、錯覚だろうが何だろうが「ドーナツには穴がある」と言ってもいいのだ。コトバは錯覚の共有である。それを分かっていればどういう風に表現しようと自由である。穴というものがあると思って「ドーナツには穴がある」と言うのが近代だとすると、穴というものは無いと思いながら「ドーナツには穴がある」と言うのがお気楽である。

 → 空間論