好き嫌い

好き嫌いの判断というのは客観的基準による判断と違って正解がありません。つまり、好き嫌いを判断することは完全に個人の自由です。好き嫌いの判断は自由ですが、それに基いて行動することは社会性とは相反するので自由にはできません。社会的制度という客観的基準に従うのが社会的行動であり、好き嫌いに基く行動は社会的制度の許容範囲内でなければ他者の反発を招くことになります。要するに「わがまま」と言われるわけです。

好き嫌いを判断することは自由ですが、現実の世界におけるややこしいものごとに対して一々自分の好き嫌いを判断することは、実際には大変な作業でもあります。好き嫌いには客観的な基準は存在しないので、好き嫌いの基準や感覚は自分ひとりで創りあげなければなりません。ややこしい現実に対する好き嫌いの判断というのは微妙な感覚を要する技能なのであり、技能があってこそ自由が得られると言えます。しかし、好き嫌いを判断する技能によって得られるのは判断の自由であって行動の自由ではありません。好き嫌いの判断が高度になったとしても行動に対する社会的制約は変わらないので、判断と行動の間の矛盾はより深くなります。

好き嫌いの判断が一種の技能であるとすると、自分の力量以上の対象については好き嫌いを考えてもわかりません。自分で好き嫌いが判断できない事柄に関する行動をするときは、善し悪しという客観的基準や他人の考えに従うことになります。自分の好き嫌いではなく客観的基準や他人の考えに従って行動した場合は、そのことを覚えておかないと、自分の好き嫌いの基準の中に客観的基準や他人の考えが侵入してきます。それは我々の中で社会性が優位になることですが、それによって個人性が無視されることになるので、精神的なバランスを崩すことにつながると考えられます。

好き嫌いというのは客観的基準ではなく個人の自発性に基いています。それに対して、善し悪しの判断は社会的制度という客観的基準に従うものなので、個人の自発性とは相容れないと言えます。したがって、好き嫌いというのは善悪を越えた判断です。好き嫌いの判断を深く追求することは個人と社会の矛盾を一人の人間の中により深く抱え込むことなのです。しかし、好き嫌いという個人の自発性は創造性の源でもあります。ややこしい現実に対する一人の個人の判断が深い感覚によるものであれば、既存の社会的基準を越えて多くの人の共感を呼ぶこともあるでしょう。