「けど」の精神

何かやりたいことがあるとする。それを「やりたいから、やる」というのは自然な成り行きでありスジも通っている。ところが、実際にやろうとすると、お金が無いとか時間が無いとか天気が悪いとか、何かとうまくいかないものである。そういう外的な問題が無くても、自分の能力が足りないからうまくいかないという場合もある。とにかく、「問題があるから、やらない」ということである。それもスジが通っている。

そうなってしまうのは、「スジが通ること」が最優先になっているからである。やりたいという意志を最優先にすると「問題があるけど、やる」になるはずだが、それだとスジが通らない。スジが通らないことをやろうとすると、他人からは「無理に決まってるのにアホなことをするヤツだ」と思われるし、自分でもどうすればいいのかよく分からなくて不安だ。しかし、それはしょうがないのである

我々がやりたいことというのは「自分のやり方を見つけること」なのであり、何かやりたいと思うのは「自分のやり方を見つけられそうだ」と予感するのと同じだ。自分のやり方を見つけられるかどうかを自分の代わりに考えてくれるほど親切で洞察力のある他人は滅多にいないから、自分が何かをやりたくても、他人に聞いたら無理だと言うに決まっている。自分の予感だって全然アテにならない。やりたいことをやるのは、そういう意味で全然スジの通らないことなのである。

自分の意志というのは周りの状況に逆らうことで確認される。問題はあるけどやる、他人からは無理に見えるだろうけどやる、というようにスジを逆転するのが大事である。だから、本当にやりたいことは、やらずにいられないからやるのではなく、やらずにもいられるけどやるのだ。不都合だけど愛するのも、笑われるけど気にしないのも、それが自分の意志でやることだからである。

世の中や自分の状況が順調な時には、自分の意志などというものはあまり役に立たない。何の問題もないのに自分の意志を発揮しようとすると、周囲に対してヤミクモに逆らうことしかできない。子供の反抗期と同じである。子供は、「自分の意志というものが存在するのだ」ということを表現して確認するために、とりあえず何にでも逆らってみるのだ。子供なら仕方がないが、大人がそんなことをすると周囲が迷惑する。自分のやりたいこと見つけてそれをやるということに意志を発揮するのが大人というものである。

今の世の中や自分の状況を順調と感じている人は少ないだろう。みんな何かの問題を抱えているはずだ。問題がある場合は、問題はあるけど何かをやるという形で意志を発揮できるし、そうするしかない。しかし、問題がある以上、思ったとおりにはいかない。でも、やりたいことというのは「自分のやり方を見つける」ことだから、思ったとおりじゃないのである。思ったとおりじゃないけど、それでいいのだ。