違和感との闘い

これからの時代に必要な多様性とは、個人の中に多様な価値観が同時に存在することであって、社会の中に異なる価値観を持った多様な個人や集団がバラバラに存在することではない。各個人が多様な価値観を同時に持つようになると、個人と個人の差がなくなって一様化するような気もするが、実はそうではない。個性というのは価値観の偏りではなく、多様な価値観のバランスの取り方に現れるのだ。

個人が自分ひとりで多様な価値観を開拓するのは大変だから、最初は偏った価値観を追求しがちである。そうすると、社会の中に様々な価値観を持った個人がバラバラに存在する状態になる。そこで、お互いに他人の価値観を受け入れることができたら、各個人の中で価値観が多様化するわけだが、それがそう簡単なことじゃないのだ。

一人の人間の中に多様な価値観が同時に存在すると、それらを一度に満足させるように行動することはとても難しい。つまり、多様な価値観なんかを持ってしまったら、自由に身動きがとれなくなる。でも、それは「アタマの中の考えと行動をちゃんと一致させなくてはイケナイ」という思い込みのせいだ。

考えと行動というのは別に一致しなくてもいいのだ。多様な価値観の中からいくつかを満たす行動を、その場に応じて臨機応変に選ぶことができたら、それを自由というのだ。多様性は自由の土台である。その土台を作るには、自分の感覚を広げていくことによって新しい価値観を身に付ける必要がある。

新しい価値観をもたらすような感覚は、今の自分の価値観にとっては「変な感じ」としか言いようのないものだ。つまり、違和感を感じるような他人の価値観を受け入れることによって、新しい自分の価値観が生まれるのである。今の自分の価値観がしっかりとしたものでなければ、違和感に負けてしまったり違和感に気付かなかったりする。しっかりした価値観とは自分の感覚に基づく価値観であり、しっかりしていない価値観とは言葉に基づく価値観である。

言葉に基づく価値観に偏った近代人は感覚に基づく価値観を身に付けなくてはならないが、それは違和感との闘いである。一方、感覚に基づく価値観を身に付けた人は、言葉に基づく価値観に違和感を感じる。だから、それを受け入れるのも違和感との闘いである。価値観の多様化というのは闘いだが、人と人や価値観と価値観の闘いではなく、自分の違和感との闘いなのだ。

→ 違和感との闘い(その2)