量か質か

食べ物でも本でもレコードでも服でも、何でもそうだが、「量を確保するのがいいか、少なくても質の良いものを求めるか」という問題がある。量より質だよと言う人もいるが、質を見極められるようになるには量をこなすしかないし、量が不足している時には質はあまり気にしていられない。食糧が足りない時に必要なのは食事の質より食べ物の量だが、食糧の供給が安定したら旨いか不味いかが問題になるように、ものごとの優先順位は状況によって変わるのである。必要最低限の量というのを考えて、それより少なければ質より量が優先され、最低限の必要を満たしたら質が求められるだろう。

近代の目標はモノや情報を社会全体に行き渡らせることである。つまりモノや情報の量が問題だから、みんなが同じモノや情報を工場や学校やマスコミから得ていたわけだ。近代化が終わると、「量が確保されたから、次に必要なのは質だ」という風に目標が変化することになる。では質とは何かというと、「物事に込められた情報の多様さ」である。つまり、量から質への変化とは均質さから多様さへの変化である。

量は一本の物差しで測ることのできる単純な価値観であるのに対して、質は多様な価値観によって総合的に判断される。物事に多様な情報を込めるには時間と手間がかかるし、それができるためには多様な価値観を身に付けている必要がある。質の良いものに出会った時、我々はそこに込められた多様な情報に出会っていることになる。それによって、自分に欠けている価値観に気付かされることもある。

最近は価値観が多様化しているように見える。しかし、実は価値観がバラバラになっているだけだ。つまり極端に言うと、「いろんな価値観があるが、各個人はそのうちのひとつを選択しているだけで他の価値観には無関心」というような状況なのである。その先には「各個人が多様な価値観を身に付けた上で、そのバランスの取り方に個性がある」という世界があるはずだが、まだそこには至っていない。

近代化によってモノや情報は普及したが、質の良いモノや情報ばかりではない。それは「多様な価値観」というのがまだ普及していないからである。自分のやりたいことをやっていると、質の良いものの背後にある多様な価値観というものがだんだん解ってくる。解ったからと言ってすぐに身に付くわけではないが、やりたいことを続けることで量をこなしていくと、いつの間にかいろんなことが身に付くものである。

 → 多様な価値観が好運を生む