面白くないとやってられない

ものごとが面白いかどうかは自分でやってみなければ判らない。それで実際にやってみると、面白そうなことが面白くなかったり、面白くなさそうなことが面白かったりする。「予想どおり面白い」などということは少ない。面白いかどうかの予想がはずれるのは、面白さの本質が「予想のつかなさ」だからである。要するに、予想がつくものは面白くないのだ。

「面白いかどうか」というのは僕にとってすごく重要な価値基準である。若い頃は「面白そうなところ」という曖昧な判断で進学先や就職先を選んだし、最近になって家を建てる時も「住んだら面白そうな」場所や間取りを考えた。しかし、予想がつくものは面白くないのだから、「絶対面白いはずだ!」と思ったらその予想は必ずハズレることになる。「多分面白いんじゃないかな」というあたりで決断するしかないのだ。ものごとの面白さは予想がつかないのだから、面白さを基準にした選択は賭けみたいなものである。

「多分面白いんじゃないかな」という曖昧な予想をするときの根拠は何だろうか。面白いことは予想がつかないのだから、面白いことをやるのは試行錯誤である。試行錯誤できる余裕というか自由がなければ面白いことはできない。だから「何となく自由な雰囲気」というようなものを感じ取った時に「多分面白いんじゃないかな」という予感が生まれるのである。自由が無いところに面白さは無い、と僕は思う。

自由とは「試行錯誤ができる」ということで、試行錯誤するのは面白いから自由には価値があるのだ。しかし、試行錯誤するのは面倒くさい。つまり、面白いことは面倒くさいものなのである。我々が面倒くさいことをしなくてすむように、世の中には「簡単・便利」な商品やサービスがあるが、そういうものに頼っていると面白いことをする機会が失われる。自由というものを「面倒くさいことをしなくてもいい」という意味に捉えていると、自由な状態に置かれた時にただ退屈になる。

もしかすると、面白さより大事なこともあるかもしれない。しかし、どんなに大事なことでも、面白くなければ続かない。面白くないことを続けるのは、ストレスの元だ。我々の生活は「生きている限り、ずっと続けなければならない」ものである。生活が面白くなければ、生きていくこと自体がストレスになってしまう。「面白くないが、続けなければならないこと」というものがあるのなら、それを続けるために「面白くする努力」が必要になる。面白くするための努力とは、面倒くさい「けど」試行錯誤を続けることである。面白いことはその先にあるのだ。