音楽とは何か

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30年以上、わりと熱心にポピュラー音楽を聴いてきた。自分が気に入る音楽を探していると、「自分にとって良い音楽は何か」を考えるようになり、それを続けていると「良い音楽とは何か」を知りたくなり、そうすると「そもそも音楽とは何か」が問題になってくる。

そういうことを考えつつ自分の気に入る音楽を探し続けていると、自分の気に入る音楽が具体的にどういうものなのかは判ってきた。自分の気に入る音楽を聴いているうちに、「音楽とはサウンドである」と気付いた。

非常に当り前な結論だが、そう気付いてからは鼓膜から鱗が落ちたように音楽がスッキリ素直に聴けるようになった。何でそんな当り前なことが今まで判らなかったのだろうと思う。感覚的・非意識的には判っていたのだが、何かが意識を妨げていた。それは何か?

音楽の三要素はリズム・メロディー・ハーモニーだということになっている。中学の音楽の教科書にもそう書いてあった。僕も何となくそういうふうに考えてきたのだが、そう考えるから判らなかったのである。音楽には、リズム・メロディー・ハーモニーの他に楽器の音色や人の声色という要素がある。実は、「その他に」じゃなくて、そっちの方が本質なのである。

音色を組み合わせたものがサウンドで、そこにはリズム・メロディー・ハーモニーも含まれている。音色は演奏する速さや音の高さによって、つまりリズムやメロディーによっても変わる。また、ひとつの音色には倍音の成分が含まれているから、ひとつの音はそれだけでハーモニーなのである。

リズム・メロディー・ハーモニーはだいたい楽譜に書けるが、音色は書けない。「リズム・メロディー・ハーモニーが音楽の三要素」という発想は、楽譜という視覚言語に囚われている。音楽なのに視覚情報とはこれ如何に? これは視覚を偏重する近代化の弊害だ。

楽譜というのは非常に情報量の少ない記録メディアである。それに比べるとサウンドは情報量が桁違いに多い。デジタルデータとして考えると、1曲の楽譜は数十キロバイト程度のテキストファイルに収まるが、サウンドは数メガバイトの音声ファイルになる。物理的情報量を考えてみても、楽譜情報を偏重するのはおかしい。

というわけで、音楽とはサウンドである。だから音楽の聴き方は「音そのものを聴けば良い」ということになる。そのためには耳を鍛えなくてはならないような気がする。でも、我々の耳はいつでも音そのものを聴いている。自分の耳が聴いているものに気付けば良いだけである。簡単なことだったのだ。

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