「何となく」と経済の関係

何かと引き換えにお金をやりとりする場合に、お金を払うのが「消費」で、もらうのが「生産」だ。お金をもらう側が何かをして、払う側は何かをしてもらう。そこでは「(お金をくれる)他人のためにやる行為」と「それと引き換えに支払うお金」がやりとりされる。ある国の中で「行為」と引き換えに支払われる「お金」を合計したのが経済の規模(GDP)である。経済成長とは「(お金をくれる)他人のためにやる行為」が増加することだ。

「生産」とは「行為」であり、その内容は「(お金をくれる)他人のためにやるべきこと」である。「消費」する側から見ると、お金を払う代わりに「自分のためにやってもらいたいこと」をやらせることになる。お金を払うのだからやってもらうのは「当り前」だし、お金をもらう方は「当り前」のことをやるわけだ。経済活動というのはお金と交換される「当り前」の流通であり、経済成長とは世の中に「当り前」の行為が増えるということでもある。そして「当り前」が増えると「何となく」は減る。

我々が「当り前」のことをやるのはお金を稼ぐためである。お金を稼いで何に使うかというと、何かを「自分でやらないで他人にやってもらう」のに使う。それは楽しいことかも知れないが、「他人にやってもらう」わけだから、自分の「やりたいこと」はできない。「やりたいこと」を他人にやってもらっては意味がない。つまり、お金で「やりたいこと」は買えないのである。

お金を払う方は「他人にやってもらう」のだから「やりたいこと」はできない。お金をもらう側は「他人のやってもらいたいこと」をやるのだから、やっぱり「自分のやりたいこと」はできない。つまり、経済活動だけが盛んな社会では「誰もやりたいことをやっていない」という状況が生まれる。そういう社会では、みんな「当り前」のことしかしていないのだ。それはシンドイことである。

経済一辺倒の社会のシンドさを解消しようと思ったら、自分のやりたいことをやるしかない。「やりたいこと」は「やらなくてもいいこと」だ。やらなくてもいいのになぜやるのかというと「何となく」やりたいからである。何となく自分のやりたいことを追求していくと、自分でやることが増える。経済活動というのは「他人にやってもらうこと」なので、世の中に「自分でやる」人が増えると経済規模は縮小する。つまり不景気になる。それは世の中の「当り前」が減って「何となく」が増えるということでもある。

今後我々が経済活動以外、つまり「何となく」に費やす時間は増えるだろう。経済偏重の社会における行動は「他人のやってもらいたいことをやってお金をもらう」と「他人に何かしてもらってお金を払う」だが、それ以外の行動というと「お金にはならないが、自分がやりたいことをやる」である。やりたいことをやるのにも最低限の消費が伴う。その消費が本当に必要な経済規模を決めるのだと思う。