やり続けるしかないのだ

今は全ての人が変化するしかない時期である。どういうふうに変化するかというと、自分のやりたいことをやるという方向である。今まではみんなが自分のやりたいことをやる時代ではなく、やるべきことをやる時代だった。やるべきことをやるのは、将来やりたいことをやるためだったわけだが、とうとうその将来が来てしまったのだ。

みんなが自分のやりたいことをやるようになると、その社会は誰も文句の付けようのない社会になる。といっても、その社会が快適なユートピアだということにはならない。自分のやりたいことをやるというのは、かなり孤独で面倒くさいものだ。快適じゃなくても、自分のやりたいことをやってるんだから文句を言えない。あるいは、やりたいことに熱中していると文句を言うのも忘れてしまう、というだけのことである。みんながやりたいことをやる社会は、20世紀的な快適志向とは違う方向にある世界なのである。

我々はまだ20世紀的価値観のままなので、孤独や面倒くささから逃れようとばかりしてしまうが、面倒くさいことを避けていると、いつまでたっても自分のやりたいことはできない。やりたいことというのは「面倒くさいけどやりたい」ことなのだ。やりたいことをやるのが面倒くさいのはなぜだろうか。物事が面倒くさいのは、それに慣れていないからである。やりたいことをやるのが面倒くさいのは、やりたいことをやるのに慣れていないからだ。

我々は20世紀的なシステムに慣れていて、やるべきことをやるのに慣れている。「やるべきことをやるが、そのかわり、やってもらいたいことをやってもらう」というのが今までのシステムで、「自分のやりたいこと」はそのシステムの外側で孤独にやるしかなかった。だから、やるべきことをやるのが得意な人ほど、自分のやりたいことをやるのには慣れていない。

最近になって生まれた地域通貨のシステムは、「自分のやりたいことを、それをやってもらいたい人に対してやる」というものだし、個人の表現手段としてのインターネットも「自分のやりたいことをやって、見たい人がそれを見る」というようなものである。「まず、自分のやりたいことがある」というのが21世紀のシステムの方向性だろうと思う。そういうシステムは、各自が自分のやりたいことをやり続けることによって成り立つのだ。

面倒くさいことは、慣れると面倒くさくなくなる。それは、慣れると身体で覚えるからだ。身体で覚えると、ややこしい手順なんかを頭でいろいろ考えなくてもできるようになって、面倒くさくなくなる。つまり、慣れるというのは身体的な能力が向上することである。逆に、面倒くさいのは自分の能力が足りないからだということになる。

面倒くさいことをやっていると、「なんで自分がこんなことをしなくてはならないんだろう?」という疑問符付きの不満がわいてくる。その答えは「自分がエラくないから」だ。それで、「エラい人間だったら、面倒なことはしなくてすむ」と思い、どうすればエラくなれるのかを考えたりする。それは要するに面倒くさいことから逃げているのである。

面倒くさいのは自分の能力が足りないからで、能力があるというのは面倒くさいと思わずにできることである。面倒くさいことが面倒くさくなくなるように能力を向上させずに、別の方法でエラくなるのはイカサマだ。能力がないのにエラそうな顔をしようとしてはいけない。才能は誰にでもあるが、努力なしに能力が向上することはないのだ。それに、やり続けないと能力は低下する。大変だけど、しょうがないのである。