退屈を楽しむのに必要なもの

電子書籍「お気楽論」

僕は昔から怠け者で、少しぐらい楽しそうなことがあっても「メンドクサイからやめとこう」と思う傾向がある。楽しそうなことでもそんな風に思うくらいだから、楽しくなさそうなことなら「是非とも避けたい」という感じである。それで、色んなことをメンドクサイという理由でやらないでいるとどうなるかというと、退屈になる。退屈だと気楽かというとそんなことはなくて、退屈でタイクツで死にそうになる。つまり、退屈を楽しむことができなかったのだ。しかし、今では僕も次第に退屈を楽しめるようになりつつある。長嶋茂雄は「プレッシャーを楽しめれば、その人は勝負強いですよ」と言ったが、僕は「退屈を楽しめれば、その人はお気楽ですよ」と言いたい。

退屈を楽しむのはなかなか難しい。退屈を楽しむことに関する僕の師は漫画の「浮浪雲(はぐれぐも)」である。浮浪雲はよくキセルを手に宙を見上げてぽかんとしている。それで、誰かに「何してんの?」と訊かれると「退屈してんの」と答えるのである。一体、積極的に「退屈する」というのはいかにして可能であるのか?

退屈というのはすることがない状態のことだ。我々は退屈するのが苦手なので、することがないと何でもいいからすることを探そうとする。そういう時、我々は自分の想像力を結び付ける対象を探しているのである。想像力には自発性がある。我々が活動している時、想像力はその活動に結びついてコントロールされているが、退屈だと想像力が勝手に動き回ろうとするのだ。想像力が活発になると、色々と自分にとって不都合なことや嫌なことも考えてしまう。悪いことだって考えるかも知れないし、考えていると実行してしまうかも知れない(小人閑居して不善をなす)。そういうわけで、我々は退屈になると落ち着かなくて、何かすることはないかと探し回るのである。

つまり、「積極的に退屈する」というのは自分の想像力の相手をすることである。そして、それはメンドクサイ。想像力というヤツは、現実性に乏しくて唐突で秩序を軽視する。想像力の相手をするのは子供の相手をするのと同じようなものである。子供は想像力のかたまりみたいなもので、自己中心的でわがままだ。わがままなやつの相手をするのは結構楽しい時もあるが、基本的にはメンドクサイものである。そのメンドクサさに耐えて自分の想像力の相手をしていると、今まで何とも思わなかったことの面白さを発見する。それまでアホらしいと思っていたことがそうでもないことに気付いたりもする。

そうなってくると、全然退屈しなくなるというか、積極的に退屈することができる。しかし、そこに至るにはどうしてもメンドクサさを避けて通ることができない。お金を出しても、誰かに頼んでも、科学の粋を尽くしてもダメである。なぜかというと、自分の想像力を発揮することができるのは自分だけだからだ。退屈とは孤独の別名である。つまり、退屈を楽しむのに必要なのは自発性である。

 → 面倒と退屈