旅をおえて

 たった6日間のハワイイ島の旅でしかないけど、小生にとっては昨年の冬のリターン
・マッチの意味はおおきかった。行く前に今度こそは旅先でダウンしないようにと、体調には最善の注意をはらっていたが、やはりカゼぎみでの出発となった。機内でも喉が乾燥しないようにとマスクをして仮眠するなどして調整をはかった。
 幸い旅行中は体調に異変をきたすことなく無事旅行をおえることができた。しかし、年をとったことには逆らえず、ヘリコプターツアーで、もどってきたときに気分が悪くなりはいてしまった。昔、グライダーを練習していた頃には考えられなかったことである。また、マウナ・ケア山の4.205m という高度にも、高山病にならないかと警戒感をいだいた。ともかく、あまり年をとっては出来ない旅行をしたという意味ではよかったと思う。
 しかし最初に計画していた複翼機によるキラウエア山の見学が出来なかったことは残念であった。私達が火口のそばでホバリングしているとき、はるか上空を複翼機が飛んでいるをみたが、火山見学はやはりヘリコプターのほうが接近できるのでむいていると思う。複翼機は別の機会にチャレンジしてみるつもりである。
 今回はハワイイ島直行、直帰というツアーであったがやはり1日はホノルルに立ち寄る行程がいいだろう。ビショップ博物館やポリネシアンセンター等の博物館見学が出来るし、お土産の購入などはやはり便利だとおもう。
 小生はこの旅行をする前にインターネットでハワイイ島の情報を収集し、そのなかから、実際に見てみたいという『視人』の好奇心をふくらましていった。日本で発行されているガイドブックには乗っていない情報を沢山手にいれることができた。まさに「Back to The Real World from The Cyber Space」だった。
 なお、このホームページはAdobe PageMill の機能だけでつくってある。
 最後に唐突ではあるが、最近小生が一番興味をもっている問題、縄文人とラピタ文化の関係についての新聞記事を載せたいと思う。今回の旅行では直接はかかわることはなかったが、ハワイイもなんらかの形でラピタ文化と関係していると思う。次の旅行のテーマでもある。


[歴史万華鏡]南から来た日本人=岡本健一<編集委員>
96.01.26 毎日新聞 東京本紙夕刊 11頁 芸能 写図有 (全1718字)
 ◇幻の海洋民ラピタ人の一派?
 ニュージーランドのマシー大学で歴史・人類学を教えている角林文雄さんが、昨年
暮れ、大阪の古代学研究会でおもしろい「日本人の起源」論を披露した。東南アジア
から太平洋上の島々に散らばった古代ポリネシア人の一派が、前二千年紀ころ日本列
島にも渡ってきて隼人(はやと)・熊襲(くまそ)の祖先になった、というのである。
壮大な角林さんの仮説に耳を傾けてみよう。
 角林さんは大阪出身で、立命館大学の大学院を修了したあと、オーストラリアの大
学教員を経て、現在ニュージーランド・マシー大学の上級講師をつとめる。かたわら、
邪馬台国論や古代国家の成立論など、多くの著書・論文を日本で発表してきた。最近
はボルネオに渡って、焼き畑農耕文化を調査している。
 その夜の研究会のテーマは「ラピタ文化と古代日本」。ラピタといってもなじみが
薄いけれど、古代ポリネシア人の残した文化で、東南アジア系の土器文化の影響を受
けて生まれた。ラピタ文化の担い手たち(ラピタ人)は紀元前二〇〇〇年ころ、突然、
ニューギニアの沿岸部や近くのビスマルク諸島に現れ、そのあと東に進んでメラネシ
アの島々に広がり、さらにポリネシアに向かって散らばっていった、という。
 最近刊の『イースター島の謎(なぞ)』(オルリアック夫妻著・猪熊兼勝さん監修、
創元社)でもう少しくわしくみると、彼らは前一五〇〇年ころ、双胴のカヌーで太平
洋の大航海に乗り出し、前一二〇〇―前一〇〇〇年ころ、ポリネシアのトンガ諸島か
らサモア諸島の間の島々に住み着くが、やがて千八百キロ離れたタヒチに到達した。
 さいはてのイースター島には西暦五〇〇年ころ、北端のハワイ諸島に六〇〇年ころ、
そして、南端のニュージーランドに八〇〇年ころ、それぞれ到達し、広大な「ポリネ
シア三角圏」をつくった。それどころか、「三角圏」をオーバーランして、南アメリ
カにまで行き着いた集団もあったらしい。「太平洋のバイキング」の名にそむかない。
 だが、角林さんのみるところ、ラピタ文化をもったポリネシア人が、「ひたすら東
に向かって大航海をつづけた」とは考えにくい。北へも南へも向かったにちがいない
のである。東南アジアから北を目指した一派は、黒潮に乗って直接、台湾や九州南部
へやってきたとみられる。到来の時期は前二〇〇〇―前一〇〇〇年ころ。縄文時代の
後期にあたる。
 彼らは、のちに「隼人・熊襲」と呼ばれる人々で、東南アジア系の「海幸山幸神話」
などを伝えた。その証拠に、彼らは八世紀になってもまだ南方系のアウストロネシア
語・マレーポリネシア語を話していた。
 このあと前五世紀ころ、第二波が中国南部から北部九州へ渡ってきて、稲作文化と
東南アジア文化をもたらした。弥生文化のはじまりだ。
 「日本人の祖先が船で飛んで来たといえば、空想の世界のようですが、古代ポリネ
シア人の移動は想像以上で、太平洋のあちこちへ広がっています。移民の動機は、彼
らが天才的な航海民だったからではなく、人口増加のプレッシャーでやむにやまれず
新しい土地を求めたものでしょう。私の考えは未熟ながら、日本民族の起源について
たいへん重要なことをいっているつもりです」
 忘れた日本語を思い出すような語り口で、角林さんは結んだ。
 これまで、日本民族と文化の形成には東南アジアから人間の移動や文化の影響があ
ったといわれながら、「では、いつ来たか」を具体的に論じた人はなかったようだ。
東南アジアを起点とした太平洋への大航海(ポリネシア移民)の一環としてとらえた
ところが、角林さんの斬新(ざんしん)な発見である。
 角林説にしたがうと、ラピタ人の活動は南太平洋のメラネシア・ポリネシアのみな
らず、西北隅のヤポネシア(日本列島)にまで及んでいたことになる。
 角林さんの話につられて、片山一道さん(京大助教授)から前にいただいた『ポリ
ネシア人――石器時代の遠洋航海者たち』
(同朋舎出版)を読み直した。現地調査を
つづける人類学者の鋭い目と、詩情豊かな筆で、ポリネシアを開拓した「幻の海洋民
族」ラピタ人とその子孫たち(ポリネシア人)の、叙事詩的航海が語られている。図
版の多い『イースター島の謎』とともに、一読をお勧めしたい。

毎日新聞社

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