ポリネシア人

ー石器時代の遠洋航海者たちー

片山一道 著
同朋舎出版
1991年




(p256)
ラピタ人の起源
 ラピタ人の正体はやっと、微かにではあるが見えかかってきた。いずれははっきりとしてくるのだろうと予感できるところまでやってきた。しかし彼らの前史については、まだスッポリとべ−ルに被われたままだ。彼らはどこからラピタ・テリトリーにやってきたのか。彼らの起源地がどこにあったのか。ビスマルク諸島の周辺で自然発生したのだと考えるラピタ・ホームランド説を除くと、多くの仮説は、何らかのかたちで、その具体的な候補地について触れている。しかし、いずれも単に頭の中でイメージしただけのものであって、深い根拠があっての候補地ではない。マレー半島から現在のインドネシアあたりの地方に、ラピタ人の源郷を求める説がある。ハイネゲルデルン以来の文化伝播理論の伝統を引くもので、果樹植物をはじめ、ラピタ人の多くの文化要素の多くがこの地方のものと共通性が強いことから発想する。ある意味では大変イージーな考え方であるが、形質人類学の方面からも信奉者が少なくない。最近では、アリゾナ州立大学のターナーなどが歯の形態特徴の観察に基づいて、インドネシア説を主張している。
 しかし、この説には致命的な欠陥が残ったままである。それは金属器をめぐる問題である。ラピタ人が出現した頃には、マレー半島からインドネシアの西部にかけての地方では既に金属器が使用されていた。しかし、ラピタ人にしても、それ以降のオセアニアの人々にしても、ヨーロッパ人の到来に至るまでついに金属器は知らなかったのである。もしラピタ人がこの地方に由来したのなら、なぜ彼らは金属器を持ってこなかったのだろうか。あるいは、なぜその製作技術を忘れてしまったのだろうか。
 中国大陸の南部に求めるものもある。アメリカのサッグスなどが唱え始めたのであるが、これこそ、単なる主観というか、思いつきにすぎないような脆さが否定できない。ラピタ人の究極の起源は、その辺りにあるのかもわからないが、彼らが船出した直接の起源地とは考え難い。
 スラウェシとかフィリピンあたりのインドネシア東部の島じまに、ラピタ人の起源地を求める研究者も多い。オーストラリア国立大学のベルウッドたちで、主として土器の形式や紋様に基ついて考古学の方面から主張するのである。しかし、これらの島じまの先史時代の研究は遅々としており、それこそ穴だらけで、なかなか議論は進まない。
 台湾あたりに直接の起源地を求める研究者もいる。言語学の関係者に多いが、ラピタ人がアウストロネシアン系の言語を用いていたとして、この系統の言語の揺藍地が台湾にあったであろうと推測することから発想したものである。
 私自身は最近、広く南シナ海一帯をラピタ人のホームランドとして視野に入れたはうがよいのではないか、なにも台湾とかフィリピンとかスラウェシなどに限定する必要はないのではないか、という考えを披歴した。そして、日本列島の縄文人も含めて、ラピタ人のオリジンを探していくべきであることを指摘した。
 ラピタ人が縄文人につながる可能性だって否定できないのである。もしそうなると、縄文人とポリネシア人の骨格に無視できないほどの類似性があること(図42)、土器の系譜関係などの考吉学的な問題、さらに樹皮布や入墨の風習の伝播などの民族学的な問題の多くの疑問に、ラピタ人をミッシング・リンクとしてアプローチしていけるようになるのだが。さて、どうだろうか。
 現に、ミシガン大学のプレイスは頭蓋骨の計測資料を大規模に比較することによって、ラピタ人やポリネシア人だけでなく、広く環人平洋の人類集団の根幹に位置するグループとして縄文人を評価しようとしている。


ラピタ人の系譜
 最近一種のブームになった感のあるラピタ遺跡の考古学的研究によって、ラピタ人の社会や文化の諸側面はかなり鮮明度を増してきた。そして、少なくとも文化的には、ポリネシア人のみならず、ポリネシアからミクロネシアにかけての広範囲な地域に分布するオセアニアン系の言語集団のほとんど総てが、何らかの形でラピタ人の末裔たる資格を有することがわかってきた。したがって、これら諸集団はみな、ラピタ人から派生したグループとみなしてよいだろう。
 人類学的にもそうなのかとなると、これはまったく別問題である。前の節あたりでは肯定的に書いてきた。私白身はそう思うのだが、現時点では単なる仮設の域を出ない。正直なところ、はっきりと判断を下すには証拠があまりにも不十分である。そもそも、直接証拠となるべきラピタ人の身体特徴がよく解明されてはいないのが最大のネックとなっている。
 これは形質人類学者の怠慢ではない。肝心のラピタ人の古人骨資料がきわめて断片的にしか発見されていないから、解明しようにも、しようがないのである。ラピタ人のそもそもの系譜については、表に示すようないくつかの仮説が提出されている。いずれも、まだ単なる憶測に近いような仮説でしかない。

 これらは、大きく三つに分類できるだろう。ラピタ人が東南アジア周辺から移住してきた民族なのか、もしそうであれば、その後のメラネシアの島嶼の民族地図に何らかの影響を及ぼしたのか、それともただ風のように通り過ぎてポリネシア人になっただけのグループだったのか、あるいは二ューギニアの北辺で自生したグループなのか、というのが主要な相違点である。お互いに矛盾する関係にあるわけだから、どれかは正しいのだろうが、今のところ、これら仮説相互の間で正当性を論じるに足る根拠は乏しい。
 最初の仮説は、ラピタ人の出自を、既に二万年ないし三万年頃からニアー・メラネシアに住んでいた原住のメラノ・オセアニア系のグループに求めるものである。そして、ラピタ人が最初に現れたビスマルク諸島の周辺などのニューギニアの北辺を彼らのホームランドと考えるものである。つまり、どこからかやって来たのではなく、海に志向した原住民が自然発生的に変容してきたグループとしてラピタ人をみなす説である。
  これについては問題点も多い。まず第一に、最初に出現したラピタ人の文化は非常に完成度の高いもので、おそらくは周囲のメラノ・オセアニア人の内陸性の諸文化の中には類似するものが全く存在しなかったこと、そして次に、最初からかなり高度な航海術を持っていたらしいことである。 
 二番目の仮説は、どこからか渡来したグループであることは認める。人口が大変小さくマイナーな集団であったために、メラネシアの地域ではあっと言う間に在来のメラノ・オセアニア系のグループに吸収されてしまった。そこを急スピードで通過して西ポリネシアに達した連中だけ、ポリネシア人となって生き残ったのだろうというものである。 これは、形質人類学者の中では依然として信奉者が多い。現在のポリネシア人とメラネシアあたりの人々とは身体特徴の面でまったく異なるとして、ポリネシア人が現在のメラネシア周辺に住むようなグループに由来したとはとても考えられないというのが、その理由である。しかし最近、血液型やDNA多型の分布調査、さらにはラピタ古人骨の研究から、この説に対する反証が次々にあがってきた。つまり、現在のメラネシアの人々の中にもポリネシア人によく似たグルーブは存在すること、しかもかつては今以上に広範に分布していたことが解ってきたのである。
 私自身は、最後にあげる仮説を信している。つまり、ラピタ人は南シナ海あたりから南下してきた海洋民のグルーブで、ポリネシア人だけでなく、広くメラネシアやミクロネシア周辺のアウストロネシアン語族のオセアニアン系の言語集団の母胎となった人々だったのだろうと考える。この方面の学界の風潮も、年を重ねるごとにこの仮説に有利なものとなってきているようだ。