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RBー36H型爆撃機の爆弾格納庫
コンベアRBー36H型爆撃機のスナップ・アクション式爆弾格納庫扉です。爆弾格納庫は前輪から主翼の下位まであります。
左下の写真は爆弾格納庫内部です。上部には主翼の構造材がはいっているとおもわれます。
右下の写真は爆弾が固定される支柱と、ドラム缶のように見えるのは前部与圧室と後部与圧室をつなぐ直径63cm‐長さ25.9mのチューブです。乗組員はチューブのなかを仰むけに台車に乗り,ケーブルを伝って往復出来ましたが.この方法はあまり好評ではなかったようです。
爆弾倉の容積は348Gで,搭載爆弾制限は長さ8.7m‐直径1.5m以内であり,爆弾の代りに補助増加燃料タンクを搭載出来ました。
参考写真・図面
コンベアBー36J 爆弾倉写真(US Air Force Museum )
コンベアBー36Dポスターより後部砲塔部分(Resource from AIR&SPACE Website Market Homepage)
このコンベアRBー36H型爆撃機には通常爆弾が84000ポンド(38.136kg) もしくは マーク17型水素爆弾が1個搭載できます。
マーク17型水素爆弾は長さ24フィート、重量42、000ポンド(19.068kg)、爆発力TNT火薬15ー20メガトン(広島型原爆の1、000倍)といわれるアメリカでつくられた、もっとも大きい核爆弾です。
コンベアBー36型爆撃機は原爆を搭載して目的地に落下させる能力はもっていました。では第2次世界大戦後の冷戦構造をいっきに深刻化させた水素爆弾にたいしてはどうだったのでしょうか?
最近翻訳された「戦場の未来ー兵器は戦争をいかに制するかー(G & M.フリードマン 著 関根一彦 訳 徳間書店 1997年 刊)」という本の中で、核兵器と戦略爆撃に関する考察がかかれている箇所から引用します。
中心となる技術的問題は、攻撃目標までどうやって水爆を運搬するかだった。最初の送達可能な水爆は「M17」といい、重さ21トン、核出力は25メガトンだった。1954年には。M17を単に持ち上げることのできる飛行機といえば、コンベアB36しかなかった。音速よりもずっと遅いプロペラ機である。しかしB36でも、おそらくM17の運搬はできなかった。運搬できる飛行機など皆無だった。(pー54 2 夜明け前の微光ー核兵器の失敗)
なぜ「運搬できる飛行機など皆無だった。」と書かれているのでしょう?
ジェット機時代( 奥宮正武 著(株)朝日ソノラマ 1982年 p175)に下記のような記事が紹介されています。
また、1953年1月28日、フォートウオース発UP電は、次のように伝えている。
「フォートウォースのスター・テレグラム紙は、〃コーズウェル空軍基地から発進して、史上最初の水素爆弾を投下したBー36は、エニウェトクから帰還したが、爆弾倉はみにくく変形し、多くの破孔があった。同機は、放射能その他の被害を修理した上で、再ぴ任務についた。爆弾倉は、実験のため当基地を発進する前、きれいに塗粧されていたが、帰投した時は黒ずんでいたともいわれる〃と報じている」
広島や長崎の原爆の爆心は、地上から約六○○メートルの上空(私が調査した時は五五○メートルと測定されていた)であったが、その約千倍もある水爆の威力を効果的に発揮さすためには、爆発の高度は約六○○○メートルまたはそれ以上が適当といわれている。広島の時の投下高度は八○○○メートルと発表されているが、広島の時と同じ高度差をとるとすると、投下機は一万三○○○メートル余の高空を飛ばねばならない。今日の大型爆撃機でも、この高度の飛行はそう容易ではない。B−36、B‐47の実用上昇限度は約一万三五○○メートルないし一万三七○○メートルといわれる−その上、爆弾も大きく、かつ重くなることが予想されるので、空気密度の少ない高空で、降下速度を遅くしたり、方向を変えたりすることも、広島の時のような低空より技術的にずっと困難であろう。その上爆発力が比較にならないほど大きいのであるから、使用上にはなお幾多の間題が残されていることは想像に難くない。
ここで「史上最初の水素爆弾 」と書かれているのは間違いだとおもわれます。この時期(1953年1月28日)までのエニウェトクでの、アメリカの核実験は1952年11月1日の世界最初の水爆実験「IVYーMIKE」と、11月16日の空中投下による実験だった「IVYーKING」の2回だけだとおもわれます。世界最初の水爆実験「IVYーMIKE」は地上に設置された巨大な爆発装置によっておこなわれました。その規模は10メガトン(広島型原爆の1000倍)、そして「IVYーKING」は、重量8600ポンド(3.904kg)の、ウラン235による500キロトン(日本で使用された原爆の25倍の規模)の原子爆弾でした。(参考資料:「ドキュメント」大統領指令「水爆を製造せよ」ー科学者たちの論争とその舞台裏ーハーバード・E・ヨーク著、塩田 勉/大槻義彦 訳 共立出版 刊 1982年 pー112)
このようにB-36 から投下されたのは「IVYーKING」だとおもわれます。水素爆弾「IVYーMIKE」の1/20の規模の原子爆弾です。それでも爆弾投下機は爆発により、相当な被害をうけて帰ってきました。これが「IVYーMIKE」以上のMー17型水爆であったならどうなっていたでしょう?
Bー36爆撃機では、この時期実用化されていた、Mー17型水爆を運搬することは出来ても実際のミッションは、航続距離は問題ないとしても、敵の要撃にたいする兵装や速度、そして爆弾投下に必要な高度などを考えると、無理に近かったのではないでしょうか?それがSACの主要爆撃機がBー52爆撃機に急速に変わった理由だと思われます。(Bー52の就役は1955年、Bー36の退役は1959年)
しかしBー36は実際に、Mー17型水爆を搭載して任務についていました。そして下記のような事故もおこしています。
1957年5月22日、テキサス州、Biggs空軍基地からニューメキシコ州、アルバカーキーのKirtland空軍基地へ、Bー36爆撃機によって空輸中のマーク17型水素爆弾が、着陸姿勢にはいった時、1700フィートの高度で突然、爆撃機の爆弾庫扉をやぶって落下しました。落下した地点はニューメキシコ大学の敷地近くでした。
爆弾は深さ12フィート、直径25フィートの穴をつくり、壊れた爆弾からいくらかの核物質が四散しました。四散した核物質は軍隊によって回収されました。
写真はNtional Atomic Museum に展示してあるマーク17型水素爆弾です。
(Resource from Welcome to the Center for Land Use Interpretation (CLUI) 's Home Page.)
マーク17型水素爆弾の構造図(THE PHYSICS OF NUCLEAR WEAPONSより)
参考サイト