(4/17記述)
爆撃目標についてー1
Bー36爆撃機はどのような爆撃目標を想定して運用していたのでしょうか?この件にかんする資料らしきものを見つけました。下記の本ですが訳者のあとがきによると、この本はロシアがまだソ連といっていたころ、ソ連の高校生向けに刊行された政治啓蒙書で、当然、CIA の犯罪を暴いた内容です。この本が刊行された当時はある種、色眼鏡で読みざるをえませんでしたが、現在読んでみると1950年代初期の引用資料は、わりと正確でないかという気がしています。ここにでてくる爆撃計画の実行部隊は戦略空軍で、そこで使われる爆撃機はBー36だったはずです。

CIAの心理戦争
N.N.ヤコブレフ 著
井戸口 博 訳
1983年 新読書社 刊
pー52
第2章 戦略の選択・原爆戦争か、心理戦争か
ワシソトンが期待したようには戦争は終らなかった。その帰趨は判らなかった。侵略者たちの粉枠は、決して「アメリカの世紀」の幕あけにはならず、かえって、民主主義勢力の決定的な強化をもたらした。ソ連邦は戦火のなかで強国となった。すでに一九四三年〜四五年アメリカ軍最高司令部−参謀長委員会は政府に、政治的「成層圏」ヘの上昇機運に対して警告を発していた。参謀長委員会は、スターリングラードからクールスクに至るソ連軍勝利の結果を評価しつつ、戦争の結果として、「ただ、一五○○年以前のローマ帝国滅亡の時にのみに匹敵し得る、軍事力に関する、深刻な変化」が生じるだろうことを強調した。アメリカとソ連というニツの〈第一級の軍事強国〉だけが残されるだろう戦後世界では、ワシントンとしては、自国の軍備を、高水準に保つよう用心深く振舞わねぱならない。戦争の結果は両大国間、広い意味では、資本主義と社会主義間の軍事的均衡である。
このワシントンの認識のなかに、戦後のアメリカ外交政策の方針の全てを理解する鍵がある。アメリカの指導者たちが考えていた戦略的課題は、事態の発展を逆転させることにあり、アメリカが自由に振舞えるような軍事上の優越をかち得ることだけが必要なのだった。武装した帝国主義はやれることとして、戦争末期に、広島、長崎への原爆投下を見せつけた。原子力のデモンストレーションは、戦後世界のプロローグである。破壊的殺人爆弾をもったので、ワシントンに、第二次大戦の結果を、消し去ることが出来るかも知れないという調子の好い期待を起させた。
すでに、一九四五年の秋にアメリカでは、ソ連邦に対する原爆攻撃の計画が出来上っていた。もちろん、誰一人としてソ連邦の軍事的「脅威」を信んじた人はいなかった。ソ連邦に対する戦争の理由は、ソ連邦に社会主義体制が存在するということそのこと自体である。そのことが、合衆国にとって「脅威である」と認めたものである。戦争計画の立脚点としては、ソ連邦への不意打ち原爆攻撃の「第一撃」理論を採用した。一九四五年に作成された最初の戦争計画は、ソ連の二十の諸都市への原爆攻撃を予定していた。周知のように、食事時間になれば食欲は出てくるものだがー 一九四八年に作られた『チェリアチール』と『フリットプード』の暗号名で呼ばれていた二計画によると、戦争開始後の一力月間に、ソ連の七○の諸都市に、一三三発の原爆が投下され、これらの都市住民二八○○万人の中、六七○万人以上が殺されてしまう事態になっていた。続いて、アメリ力軍司令部の構想によると、われわれの降伏を引き出すためにそのあと二○○発の原爆がソ連に向けられていた。
狂犬のような原爆マニアたちは、直接的な戦争準備に着手した。ソ連邦の周辺に、熱病的な性急さでアメリカ軍基地を設定し、戦略飛行隊を展開し、軍事ブロックを組織した。事態を先取りしようとしてアメリカの指導者たちは、もう「敗北した」ソ連邦の政治的取扱い方の決定にとりくんでいた。一九四八年八月十八日、米国大統領トルーマンは、かつて見たことがないような文書、国家安全保障会議訓令第二○−一号「ロシアに関するアメリカの目的」を承認した。それによると、ソ連邦が降伏した後、アメリカはわが国を「統治」するはずの各種の反ソ亡命者たちをわが国に送りこむことになっている。抵抗するもの全ての運命は事前に決定されていた。ソ連共産党員およびソビエト機関の働き手全員はみな殺しにされる。しかし、「殉教者の地域」を作らないように、アメリカ占領軍でなく、亡命者の屑の中の「統治者」自身の手によって行われることになっていた。「われわれはただ、必要な武器を与え、この地域を管理する任意の非共産主義政権に軍事的支援を与えるだけで充分であり、ロシア国内戦争の伝統的な手法で、共産主義者の徒党を懲罰することにより、最終的に解決する。」
国家安全保障会議訓令第二○−一号を遂行するために、戦争の作戦計画が作成された。その中の一つで、一九四八年十二月二十一日に、戦略空軍司令官によって、参謀長委員会に提出されたSAC文書の二四九は、「戦争は一九四九年四月一日までに始まる予定」ということから始まっていた。だから「最初の七○都市に対する作戦のための航空地図や、目的物の計画は、一九四九年二月一日までに、各部に配布する予定」などと、戦略空軍司令官は闘士満々であった。