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航空ジャーナル 1978別冊

アメリカ空軍の翼 p70 成層圏の太鷲 コンベアBー36

田村俊夫 著

引用、第3 回です。なお文中の写真、図版には省略しているものもあります。またリンクは小生が設定したものです。

(著者の田村俊夫氏、このページを見られましたらご連絡をいただきたいと思います。)

B-36の就役

 1947年8月28日には、Bー36の生産ラインからB‐36Åの1号機が初飛行したが,本機は強度試験用で,地上輸送より自力での空輸の方が便利なため,飛行出来るようにしたものだった。

 次いで同年12月4日には原型2号機のYB‐36が初飛行,さらに翌1948年7月8日にはB‐36Bの1号機が初飛行した。YB‐36は初飛行の10日後にはXB‐36の到達高度を越える12,192mを記録,B‐36Aも1948年には33時間10分の連続飛行を行ない,途中搭載していた10,000ポンドの爆弾を投下するなど,XB‐36より性能の向上を見せた。このためようやく最初の100機の発注はB‐36A22機,B‐36B72機に確定されることになり,1948年6月26日には最初のB‐36AがSACのカーズウェル基地の7BG(H)(第1重爆撃グループ)に引き渡された。予定より30か月遅れたがSACはようやく大陸間爆撃機の装備を始められることになり,新たに爆撃機のクラスを従来の超重爆(VeryHeavy),重爆(Heavy),中爆(Me‐dium)の3クラスを,重爆・中爆・軽爆とし,従来超重爆のB‐29・50を中爆に格下げし,B‐36が新たな重爆撃機のランクを占めることになった。

B‐36を装備したSÅCは同年6月のソ連によるベルリン封鎖に始まる東西緊迫のなかで,アメリカ核戦略の担い手として責任が重くなり,10月には第2次大戦で日本爆撃で名を挙げたカーチス・ルメイ将軍が新司令官として着任してくるなど,訓練に一層熱が入ることになった。B‐36の方も同年12月に7BG(H)の所属機がテキサス州カーズウェル基地からハワイまでの無着陸往復飛行を実施,翌1949年1月29日にはB一36Bが44,000lb(19,976kg)T12超大型爆弾2個を搭載.フォートワース基地を飛ぴ立ち.マロック乾湖に最初の1発を高度11,000m,残りの1発を高度12、000から投下して40トンの重量物投下能力を実演,設計目標のテン・テン・ボマーの名に恥しないところを見せた。

 だが,本機の設計構想の頃と時代は変わり,本機を要撃する戦闘機の能カも向上,特にジェット戦闘機の出現はレプシロ爆撃機に大きな脅威となった。このため全行程での速度・上昇能力の向上は無理としても,目標地点や敵戦闘機の要撃を受けた時など一時的な能力向上が出来ないか,と考えられたのが,ジェット・エンジンの迫加装備である。コンベア社ではジェツト・エンジン2基のポッドを翼端に吊下する構想を1948年10月に提案し,最大速度が327ktから378ktに向上する他,離睦性能・上昇能力も向上する見積りを提出した。空軍では本構想を受け入れ,まず1949年1月に戦略爆撃に必要な戦略債察を行なう偵察機にB‐36のジェト・ポッド付き型を採用することにし,36機が競合のノースロップRB一49を抑えて発注となった。そして3月26日にはB‐36Bの1機がボーイングXB‐47の内側エンジン・ポッド(J35・2基)を外翼下に付けて初飛行したが,好成績であるため,4月にはXB−36を除く全機がB‐47の生産型が使用しているJ47・2基付きポッドを追加装備することになり.新たに36幾を追加発注したものの,このため小型機327機がキャンセルされたといわれる。

つづく