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航空ジャーナル 1978別冊

アメリカ空軍の翼 p70 成層圏の太鷲 コンベアBー36

田村俊夫 著

引用、第2回です。なお文中の写真、図版には省略しているものもあります。またリンクは小生が設定したものです。

(著者の田村俊夫氏、このページを見られましたらご連絡をいただきたいと思います。)

参考WWW :The development of the XB-36 (US Air Force Museum )

Photo from Goleta Air and Space Museum

XB‐36の初飛行

 ともあれXB一36は1945年9月8日さまざまな問題を内蔵しながらもフォートワース工場からロ一ルアウトした。但し,発動機が未装着などで82.5%しか完成していない姿であったが。そして同年11月には飛行テスト用の発動機が到着,翌年の6月から発勤機を付けたテスト・ランプを始めたが,プロペラの風圧でマグネシウム合金製羽布張りのフラップが破損してアルミニウム製に変更せねばならぬハプニングも起こった。軍の方では遅延にしぴれを切らし,一部のテストを後回しにしても初飛行を催促して来た結果、7月には地上滑走テストが始まった。そして1941年4月の計画開始以来5年4か月後の1946年8月8日にようやくXB‐36はコ社のテスト・パイロットのB.A.エリクソンの手で初飛行に成功した。

XB一36のテストで問題となったのは,風胴試験で直ったと思われた発動機の冷却不足の再発とブロペラの振動による主翼構造の強度不足,新材料使用による電気系統の不調などであった。これらのうち予想外だったのは燃料消費率オーパーと主翼後方に置かれたプロペラがフラップ下げなどのいくつかの条件の下では主翼の後流の影響を受けて振勤を起こすことで、発動機付近は強度不足となり,フラップ、プロペラ・シャフト,プロペラ・ハブなどは強化され,発動機の加熱は新しい冷却ファンの開発なので切り抜げねばなかった。だが,最大の間題はXB‐36の性能が予想を下まわったことで,3、000馬力の発動機を付けながらも到達最高々度11,278m,最大速度184tで,航続距離は約5,642nmと想定された。

 この結果とトラブルに失望したのは SACの初代司令官ケニー将軍で,1946年12月に本機の100機の発注をキャンセルし.少数のテスト機の発注に切り換えるよう上層部に勧告したが,3,500馬力に馬力アップした発動機を23号機以後に付けるなどで性能アップを信じる上層部により,彼の意見は採り上げられなかった。

 コンベア社では原型XB‐36に続く2号機YB‐36を生産原型と見なし,1946年半ばから製作を始めたが.XB‐36との最大の差は機首部に砲塔を付けるためと機首部からの視界を改善するために機首部が上へふくらんたことで,主車輪は単車輪のままだったが発動機のスーパーチャージャーは新型に変えられた。YBー36に続いては主車輪を4車輪ボギー式に変えたBー36Aが22機製作されることになっていたが,この型は非武装の増加試験・訓練用型だった。B‐36の実用型は発勤機を3,500馬力にアップし,武装を付け,K一1レーダ一爆撃照準器を付けたB‐36Bで生産23号機以後がこの型の予定だった。

 なおこの頃のB‐36の乗組員は操縦士2(うち機長1),レーダ一爆撃士・航法士・機関士各1・無線士2,銃手8の計15人で,4人が交代要員だったが,後期のH型からは機関士が1人増して計16人となった。このうち銃手5人は後部与圧室に配属され,前後の与圧室間は直径63cm‐長さ25.9mのチューブで接続され,乗組員はチューブのなかを仰むけに台車に乗り,ケーブルを伝って往復出来たが.この方法はあまり好評ではなかった。爆弾倉の容積は348Gで,通常のペイロードは32,660kg、搭載爆弾制限は長さ8.7m‐直径1.5m以内であり,爆弾の代りに補助増加燃料タンクを搭載i出来た。

B一36に搭載している発動機はP&Wワスプメジャーであるが.1947年3月に本発動機の排気を利用して4、300馬力を得ようとする性能向上型R‐4360−61(VDT)の開発が行なわれることになり,コンベア社も早速この発動機を付けた性能向上型B−36Cを同月に軍に提案した。本型は最大連度が356kt,実用上昇限度が13,716mに向上した上,航続距離も10,000マイル(8,680nm)という最初の設計値通りの見積りだったため,関心を引き.本型の開発・製作費をひねり出すため100機の発注数から3機を犠牲にして1機を試作することになった。C型の外観上の特徴は従来の型の推進式が牽引式となり,ブロペラを主翼前方に置いたことであるが,本構想を詳細に検討してみると発動機を従来と同しく翼後方に内蔵したことが災いしてまたもや発動機の冷却不足が間題となり,期待通りの性能が発揮出来ないことが明らかになった。1948年5月,には、本型の開発をキャンセルすることが正式決定され、Bー36の性能向上案の一つは日の目を見ることがなく終わった。

つづく