(2/23記述)

 (2/18記述)で大量報復戦略について、「核戦略批判」から引用して、ソ連の核攻撃に対する報復行動という視点で説明しましたが、ソ連とアメリカの核の傘におおわれた国や地域の境界紛争や米ソの代理戦争にたいする役割をわすれる訳にいきません。

 1949年9月21日に成立した”共産主義国家”中華人民共和国の誕生、そして1950年、6月25日に始まった朝鮮戦争(1953年7月27日、朝鮮休戦協定調印)は地域紛争に対する核抑止力の限界を浮き彫りにしました。(テーラー大将の批判)しかしアメリカ政府は”自分の流儀”で戦争をするという姿勢を強めていきます。

1954年1月12日 ダレス米国務長官、大量報復政策について演説。

冷戦 ー回顧と展望ー

F.L.シューマン 著

宮地健次郎 訳

岩波書店 1963年 発行

訳者がまとめた「冷戦覚書(1945ー62年)」より1954年の項から(Pー141)

 〜大量報復政策

 ダレス米国務長官はアィゼンハワー政府の対外政策をひとりで推進した大物長官であった。ダレス長官は一九五四年一月十二日の演説で核兵器につよく依存する新国防政策を打出した。以下この演説から。(Documents of American History.Appleton・Century・Crofts,New York,1958)

 局地的防衛はいつでも重要であろう。しかし、独力で共産世界の巨大な地上勢力を阻止しうるような局地的防衛はあり得ない。局地的防衛はさらに大量報復力の抑止力によって補強されねばならない。潜在的侵略者は、かならずしもつねに自分に適した戦闘条件をきめえないということを知らねばならぬ。そうでないと人力の豊富な潜在的侵略者は、抵抗も人力の範囲に限られると思いこんで攻撃しようとすろかもしれない。自分が決定的優位にたつ地域で攻撃しかける気になるかもしれない。侵略を抑止する道は、自由世界が自らえらんだ場所と方法で反撃する力と意思をもつことである。〜

つづく