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RBー36H型爆撃機の偵察目的
RBー36Hー戦略偵察型爆撃機は73機作られ、Bー36の戦略偵察型爆撃機はRBー36Hを含めると114機以上作られました。、Bー36型爆撃機の総生産数が383機ですから、約1/3のBー36が戦略偵察型爆撃機だった訳です。(航空ジャーナル 1978別冊 アメリカ空軍の翼 p70 成層圏の太鷲 コンベアBー36 田村俊夫 著 Bー36D〜Bー36J)
ではこれらの戦略偵察型爆撃機の任務はどのようなものだったのでしょうか?
B-36戦略偵察型爆撃機には主に2つの偵察目的がありました。写真偵察とSIGINT(信号情報収集)です。
諜報戦争ー21世紀生存の条件ー (ウイリアム・V・ケネデイ大佐他 著 落合信彦 訳 1985年 光文社 刊 7 諜報と空中での戦い P276)に下記のような記述があります。
新兵器の登場が、これを必要不可欠のものとした。核爆弾搭載爆撃機部隊の拡充にともなって、アメリカの地図作製者にはまったく末知の巨大な大陸に点在する、町や市の正確な位置を把握する必要が生じ、そのための作業は、戦時における偵察と同様な重要性が与えられた。
陸上戦闘の進展を妨げる目的から、ソ連の地図は町、市、物理的障害を、実際の位置から数十キロずらして記人してある事実が判明した。一九四七年に国防総省が設立され、米空軍が独立軍として再編成されたことにより、新たに長距離核抑止を任務とする戦略空軍部隊が創設された。戦略空軍が有効な脅威影響力をもつためには、自由落下式核爆弾に対して、事前に目標を設定しておく、統合的な戦争作戦計画が必要である。ソ連の地図が信用できない以上、アメリカは独自にソ連の地図を作る必要があり、このためまず大戦中に使われたB−17フライング・フォートレスとB‐29スーパー・フォートレス両爆撃機を改造し、多数のカメラと大量のフィルムを搭載した偵察型RB‐17、RB−29が作られた。
一九五○年代中ごろまでに、米空軍偵察部隊はソ連の市や町の第一次調査を終了し、これまでに公表されていた地図上の多くの誤りを修正している。これにより目標の位置はかなり精密に把握できたため、戦略ミサイルの開発装備が可能となった。
しだいに偵察よりも監視任務の重要性が増大し、ソ連や中国の街や工業地帯に関する情報が集まるにつれて、通常の謀報チャンネルからでは得られなかった兵器開発計画も浮かぴあがってくるようになった。これはソ連や中国軍の戦力について、過大な反応をもたらしもしたが、数ヵ月間にわたる変化を観察して、確実性の高い情報を得ようとする努力に、拍車をかける結果ともなった。
「鉄のカーテン」の向こう側について、まったく無知であったアメリカ政府のあせりがかんじられます。また、
空のスパイ戦争ー上空1万メートルで何が起こっているかー(デイック・ファン・デル・アート 著 江畑謙介 訳 1988年 光文社 刊 2 鉄のカーテンの上で Pー34)に下記のような記述があります。
一九五○年ごろ、NAT0とワルシャワ条約機構が設立された後からは、西側の航空機によるソ連ブロックの空に対する侵犯はより頻繁になっていった。鉄のカーテンなどほとんど意に介さず、英空軍のベノムやキヤンベラ、そしてイギリスを基地とする米空軍のノース・アメリカンRB‐45トーネード、コンベアRB−36ピースメーカー、ボーイングRB−47ストラトジェットなどは、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、そしてロシアの空に堂々と侵入していった。当時のソ連の防空綱は穴だらけであり、西側のスパイ機は多くの場所から、発見されずにソ連の領空内に入ることができたのである。
イギリスとアメリカの軍事情報機構は、最高度の秘密のうちにこの共同作戦を進めた。一九五二年には四機の米空軍のRB‐45C偵察機が、英空軍の塗装を施され、しかし国籍マークはつけずに、スカルトープの英空軍基地を発進して、鉄のカーテンの背後、東ドイツやその他の国を秘密に写真偵察をするまでになっていた。
トーネード偵察機は当時としては最新の機体で、12台のカメラを装備していた。この偵察機には、アメリカとイギリスの乗員が混合して乗り組んだこともあると思われる。RBー45Cは一九五二年一月に、米戦略空軍(SAC)の第91戦略偵察ウイングの分遣隊として、スカルトープに駐留するようになった。
ソ連の軍事施設、とくに航空基地、兵器工場、核兵器工場の地図を作製する目的から、米空軍は巨大な10発型のコンベアB‐36まで投入している。この爆撃機の偵察型RB−36とは別に、少数の〃フェザー級〃Bー36が偵察用として使われた。これは兵装やその他の不要な装備を撤去し、乗員を少なくして超高高度を飛べるようにした型である。ソ連のMiG-l5戦闘機の要撃を逃れるためであった。一四台のカメラと電子盗聴装置を積んだ標準型のRBー36が飛べる高度は一万五○○○メートルであったが、この必要最小限の装備だけを積んだ特別のスパイ型は、ソ連や中国の上空を一万八○○○メートル以上の高度で安全に飛行できたのである。
上記の〃フェザー級〃Bー36とはBー36Jのこととおもわれます。(Joe Baugher's American Military Aircraft Encyclopedia )
しかし、Bー36が一万八○○○メートル(60、000フイート)以上の高度で航行できたかは不明です。
このようなソ連や東欧諸国にアメリカが領空侵犯をしていた件については、1960年5月1日にアメリカの秘密偵察機U-2がソ連領空内で撃墜され、事件がソ連側から公表されたようなことでもないかぎり、今後も決して公表されることはないでしょう。
写真は小生が視にいったRB-36Hの所属していた第28戦略偵察部隊のマークです。
1998年5月3日 更新
最近、下記のホームページにBー36が58,000feet(17,400メータ−)まで到達していた記事(強調部分)をみつけました。
B-36: Bomber at the Crossroads.(AIR&SPACE)
Finally, in 1955, Convair took a different approach, stripping the mega-bomber to the essentials. Just as LeMay had gambled his B-29s in 1945, sending them low and fast over Tokyo armed only with tail guns, SAC got a "featherweight" B-36 with only two guns, a smaller crew, no stove or other luxuries, and, in the bargain, a longer range. Many of the earlier models were modified to the new standard, especially the reconnaissance versions. Indeed, it's possible that LeMay's fondness for the B-36 may have had less to do with its potential as a bomber than its value as a spyplane. SAC ended up with 369 of the jet-recip hybrids, including modified versions, and more than a third were reconnaissance bombers.
The RB-36 could carry an atomic bomb, but its principal weapon was a camera the size of a Geo Metro, set in a photo studio that replaced the forward bomb bay. Loaded with a roll of film 18 inches wide and 1,000 feet long, this great camera once photographed a golf course from 40,000 feet, and in the contact print, on display at the Air Force Museum in Dayton, an actual golf ball can be seen. If an RB-36 could see a golf ball from eight miles up, it could see tanks, airplanes, missiles, and factories. Surely this was the task that LeMay saw for the Peacemaker: With its enormous wings and extra fuel, who knows how high and how far it could fly? B-36 crews speak of 45-hour missions, presumably with fuel cells instead of nukes in the rear bomb bays; at cruise speed, a "featherweight" could travel almost 9,000 miles in that period. The official ceiling was 41,300 feet, but again, crews say that they routinely flew higher than 50,000 feet, and one man--John McCoy, quoted in Thundering Peacemaker--boasted of soaring to 58,000 feet. On missions over China, McCoy said, his RB-36 was chased by MiG fighters that couldn't climb anywhere near it. U.S. fighter pilots of that period also recall B-36s cruising comfortably well above their own maximum altitude. Not until the advent of the "century series" fighters--the F-100 and up--would the B-36 be challenged. Whether the RB-36 ever overflew Russia is anyone's guess, but it was the U.S.
altitude and distance champ until the Lockheed U-2 came on line toward the end of the decade.
2001年1月21日更新
RBー36HさんからBー36の高度記録について貴重な情報をいただきました。59、000Feet(17,700m)という高度を獲得しているようです。
Airpower March,1987(Vol 17 No.2)
THE ALUMINUM OVERCAST CONVAIR`S B-36 AS SEEN BY ITS CREW
Most of the time our mission were flown at a base altitude of twenty-fivethousand or thirty-three thousand feet.
About every fourth flight we would have tasks that required what was termed "High Altitude."For those we would go to 45,000 feet or more.
The highest I ever flew in a 36 was 52,000 feet.
I was told that 1086 (a super featherweight and the prototype airplane of that program) went to 59,000 feet.
This aircraft even had its rest bunks removed and was used as high altitude observation platform for the H-bomb tests in Eniwetok in 1952.