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航空ジャーナル 1978別冊

アメリカ空軍の翼 p70 成層圏の太鷲 コンベアBー36

田村俊夫 著

引用、第5回です。なお文中の写真、図版には省略しているものもあります。またリンクは小生が設定したものです。なおリンクした写真はUS Air Force Museum の展示物です。

(著者の田村俊夫氏、このページを見られましたらご連絡をいただきたいと思います。)

参考サイト

The University of Western Ontario Middlesex College

Convair B-36 Peacemaker(index)

Bー36D〜Bー36J

 この年の9月には大統領がソ連原爆実験実施を公表,アメリカの核兵器独占体制が崩れ,翌年の1950年6月には朝鮮戦争がぼっ発するなど東西冷戦が高まり,空軍はその力の増強に努めることになり,B‐36も次々に改良型が生み出された。

 先に発注されたジェット・ポッド付き爆撃機型はB‐36Dと名称が変わり,J35ポッド付きB‐36B改造機がD型の原型となった。生産型のB‐36Dの1号機は1949年7月11日に初飛行,22機が製作されたほか,B型64機もD型に改造されたが,B型との主な相異はJ47ポッド装備のほか,爆撃照準器がK‐1からK‐3Aに変わり,爆弾倉の扉がスライド式からスナップ・アクション式になったことで,総重量は167,980kgに増したものの.戦i闘行動半径は3,062nm(爆i弾4,540kg搭載)に落ちた。翌1950年11月18日には次の爆撃型B‐36Fの1号機が初飛行した。本型はレシプロ発動機が3,800hpのP&WR‐4360−53に変わり,最大速度が363kt/11,308mに向上したものの戦闘行動半径はD型より259nm減少した。本型は34機製作されたが,次のG型はB‐36の部品72%を流用した後退翼付き8発ジェット爆撃機でボ一イングB‐52との競作で,21機がB‐36Fの発注分から引き当てられ,1951年3月に発注されてYB‐60となった。

B‐36Iは欠番で、次のB‐36HはB‐36Fと同じ発動機を更用して,機尾砲塔用レーダーがD型以来のAPG‐32からAPG‐41Aに変わり,チャフ636kgを搭載,機関士が2人に増えるなどと変わり,自重もD型の73,262kgから76,493kgに増し,増々重くなった。本型は1号機が1952年4月5日初飛行,翌1953年7月まで83機が引き渡され,本型が爆撃機型のなかでは一番多く作られた。爆撃機型の最終生産型は1953年9月3日に初飛行したB一36Jで,33機が1953年10月から翌1954年8月にかけて引き渡されたが,本型では燃料搭載量をH型の109,014−127,7797Lから131,940〜138,305Lに増加したため,総重量が186,140kgにアップし,このため降着装置が補強された。

 爆撃機型の生産は以上であるが,B36は先に述ペた様に戦略偵察機として選ばれ,この型も爆撃機型に劣らず各種型が次々と製作されていった。偵察型のB‐36の変更は前部爆弾倉がカメラの収容用に当てられ,焦点距離42インチのカメラ1台を含む14台のカメラやフラッシユ弾などを搭載,乗組員も22人に増えた。戦略偵察型の最初の生産型はD型相当のRB‐36Dで.1号機が1949年12月18日に初飛行,17機が製作され,B型から7機が改造された。そしてYB‐36とB‐36A‐22機がレシプロ,ジェット双方の発動機を改装してD型仕様にグレードアップした上で偵察型に改造され,RB‐36Eとなった。次ぐRB‐36FはB‐36Fの(偵察型で24機,RB一36HはB‐36Hの偵察型で,主生産型となり.73機が作られた。

 この他,航空機用原子炉を空中で運転するためB‐36Hの1機が改造され,後部爆弾倉に出力lメガワットの原子炉を搭載して,NB一36Hとなり,1955年9月から1957年3月まで47回の飛行を行なったが,本型は機首部が放射能を防ぐためシールドされている。また1953年春にはFlC0N計画に従って10機のRB‐36をリバブリックGRF一84F搭載可能に改造して,GRB‐36とした。

B‐36の発達型では先に挙げた輪送機型のXC一99,純ジェット爆撃機型のYB60があるが.いずれも量産には移れす,B‐36の生産は1954年8月14日に引き渡されたB‐36Jで終わったものの,総製作数は385機と,この種の機体では非常に多かった。

つづく