- 11月6日、成田発夜の便で、我々トレッカー4人がクアラルンプール経由カトマンズに着いたのは翌11月7日の昼前だった。今回のコース案を作ったのはガイドのP氏(34歳)だった。空港にはP氏、P氏のお兄さんのD氏が迎えに来ていた。車の中で今回のトレッキング費用、1919ドル/一人を支払ってから、車で国内線のターミナルに移動した。P氏がポカラへの飛行機の搭乗手続きを済ませてくれた。我々4人は空港の食堂で麺類の昼食を食べた。少し辛くて口に合わなかった。昼食と休憩の後、カトマンズへの飛行機にP氏と伴に乗り込んだ。好天で右側の窓からはヒマラヤの高峰を楽しむ事ができた。ポカラではタクシー2台に分乗し、Mount View Hotelにチェックインした。P氏は別の宿を取っていた。P氏は日本語も上手で我々の通訳にもなってくれた。P氏の通訳で地図とミネラルウォーター、トレッキング中のお菓子を購入し、夕食をP氏と一緒にホテル近くのレストランで取った。
- 11月8日、ホテルに迎えに来た車(ジープ)の屋根に荷物を積み込み、我々4人とガイドP氏の合計5人が乗り込んで出発した。道は時々未舗装になり大きく揺れた。ベニ(Beni)ではP氏の買い物のため小休憩をした。ちょうどネパールのお祭りの日で、広場では4人の20歳位の女性が音楽に合わせて踊りを踊っていた。ガルシュワー(Galeshwar)で車を降りた。待っていた他のメンバーと挨拶した。今回は我々4人の他、ガイドはP氏とアシスタントガイドN氏(47歳)の2人、料理長1人、キッチンスタッフ3人、ポーター8人の合計18人の大所帯だった。アシスタントガイドは、今回歩く箇所の前半部分がガイドP氏にもなじみが少ないとの事で依頼したものだった。今はカトマンズに住むN氏は、出身が今回歩くコースの途中との事だった。前日まで同じコースでドイツ人グループのガイドをしていたとの事だった。ポーターは若い男性ばかりだった。一番若いポーターP君は、まだあどけなさの残る19歳だった。ガルシュワーの食堂でダルバッド(豆と米の料理)の昼食を食べている間に、我々の荷物を持ったポーター達は先に出発して行った。我々も軽い荷物だけを持ち、後を追ってガイド二人と出発した。ガイドのザックは我々が一泊キャンプで担ぐ程度の大きさ、45リットルザック程度だった。歩き始めてすぐの車道では、下ってきた車の土ほこりがひどく、マスクでも付けようかと思った程だった。幸い車道とはすぐに分かれて歩道の歩きになった。村の生活道路だった。暑い日で途中でシャツ1枚になった。セミがたくさん鳴いていた。途中で着飾った女性二人とすれ違った。50-60歳の西洋人夫婦のトレッカーとすれ違った。出発して2時間近くで、宿泊地、マウワハント(Mauwa Phant)(1290m)に着いた。すでに先に着いていたポーター達がテントを設営済みだった。我々トレッカーのテントは、サイズ4人用くらいで、2人で使うには十分な荷物スペースが有った。ふかふかのマットが敷かれていた。他にガイド用のテント、キッチン用テント、食事用テント、トイレ用テントが各1張りずつ用意されていた。テント設営箇所は村のすぐそばの運動場で、広さはバスケットコートとテニスコートを合わせたくらいの大きさだった。早々にテントで休んでいると、バスケットボールをしにきた村の子供達が珍しそうにテントの中をのぞき込んだ。言葉が分からず会話することができなかったのは残念だった。夜は新月で星空がきれいだった。天の川が良く見えた。テントの回りには蛍が飛んでいた。これからのトレッキングを楽しみに眠りについた。
- 11月9日、トレッキングの一日は、キッチンスタッフの「グッドモーニング」の朝の挨拶と供に始まった。朝のコーヒーをテントまで持ってきてくれたのだ。コーヒーを飲みながら、食事までに自分の荷物をまとめておいた。ポーターに運んでもらう荷物を大きいザックに入れ、水やお菓子、防寒具など持って歩く物を小さいザックに入れた。朝食は食堂テントまで行って我々4人だけで食べた。朝食後、テントがたたまれポーター達が荷造りをした。キッチンスタッフは朝昼晩三食の料理を作ってくれるだけでなく、食事に関する荷物の運搬も担当していた。籠に食器や食料の大部分、燃料の石油、石油コンロを入れていた。籠の編み目からたくさんのパスタの箱が見えていた。料理長の方は卵約60個を三段のケースに入れて手に持っていた。籠に入れたのでは割れてしまからだろう。荷造りが終わるとポーター達は次々出発して行った。我々もガイドと伴に出発した。最初は未舗装で荒れた車道の登りだった。車は通らなかった。二人が乗ったバイクが登って行っただけだった。所々で車道を近道する階段の歩道を登った。時々ポーター達に追いついた。ポーター達の荷物は一人30kg弱だった。荷物の後ろ、下から1/4~1/3位の所にかけた紐を頭まで伸ばして額にかけて担いでいた。30kg近くあると一人で持ち上げるのは困難で、もう一人が後ろから持ち上げながら立ち上がっていた。よくしたもので、トレッキングコースの休憩所には椅子の代わりに高さ約1mの石の台が有った。台の上に荷物を置くと、出発時に一人で立ち上がる事ができた。靴は半分くらいのポーターがサンダル履きだった。急登で追い抜いた時にポーターのP君は足首をさすっていた。どうやら足をひねった様子で、ガイドP氏も心配そうに見ていた。何とか持ち直したようで、その後は他のポーター達と一緒に歩いていた。ダグマン(Dagnam)村が見えたところで休んだ。上には桜が咲いていた。前方にはダウラギリの左手の白い山が見えた。休んだ所から5分でダグマン村に着いた。村外れまで歩くと、二人の30歳くらいの女性が道脇で洗濯をしていた。セミが鳴き、暑い車道歩きが続いた。車道の終点手前に茶店が有った。営業はしていなかった。茶店の先で車道は終わり山道になった。絶壁の中間を行く道だった。道幅は約2mだった。途中の岩壁に大きさ約2mの白い大岩が有り、2匹の蛇の絵が描かれていた。蛇の絵の先で後ろを歩いていたNさんとの間に小石がピシッと音を立てて落ちてきて驚いた。難所を回り込むと絶壁が終わって展望地に着いた。前方に白い大きな山が見えた。休んでいたポーターが「ダウラギリ1」と教えてくれた。展望地から少し下ると、ダルミジャ(Durmija)の集落に着いた。牛の放牧地が有った。民家の庭先にシートを敷いて昼食を取った。粉末ジュースの後、スパゲッティーを食べた。少し辛いたれが付いていた。おかわりをした。ダウラギリの眺めが良く風が心地よかった。谷の向かいに火が付いていたのが見えた。ダルミジャの先には吊り橋が有った。牛がいてセミが鳴いていた。時々住民とすれ違った。シャクナゲの木が有った。風が気持ちよかった。水場を過ぎるとこの日のテント場に着いた。石造りの小屋が有った。段々畑の跡地のような場所だった。ガイド二人が我々のテントを設営し、次に自分たち二人用のテントを張っていた。おなかの調子が悪くなり、トイレテントが設営されるなり駆け込んだ。どうやら昼の辛いスパゲッティーのソースが響いたようだった。この日はロキシー(お酒)は遠慮して、お湯だけを飲んだ。ガイドのP氏がポーターに買ってきてもらった鳥の肉が、この日のつまみだった。夜は天の川が見えた。鳥が鳴いていた。携帯はかろうじて通じた。
- 11月10日、朝は下痢だった。次々に出発していくポーターに続いて出発した。最初の吊り橋を渡るまでに村人数人とすれ違った。村に入るとガイドのN氏が住人から自分のスマホを受け取っていた。どうやら前日にスマホを預けて充電してもらったらしかった。最初の吊り橋で枝沢を渡り、次の吊り橋で谷を渡った。渡り終わった所は人家のすぐ前だった。ポーター達が休んでいた。この付近がチンコーラ(Chimkoha)集落だった。緩い登り坂を登って行くと村外れに白いゲートが有った。ゲートに書かれた文字によるとチンコーラとダウラギリの境らしかった。セミが木に止まっていた。しばらく進むと店が有り、前でポーター達が休んでいた。店の中ではポーターが米を買っていた。飴を売っていたので10個ほどを20ルピー(約20円)で購入した。コーラを購入している村人がいた。休憩後、再び道を歩いて行った。荒れた道で車の通行は、ほとんど不可能だった。店が2軒ほど有った。やがて緩い下りになった。店裏の路地を進むと本流を渡る長さ100mほどの長い吊り橋が有った。向かいのカーリ(Khali)谷の出合で昼食休憩になった。下痢は治まったようで何とか普通に食べることができた。周囲には牛の糞が多かった。休んでいる間に25歳くらいの背の高い男性が牛糞を背中に背負った篭に集めていた。昼食休憩後、200mほど本流脇の道を登った後、急な階段の道で尾根を登って行った。少し紅葉が見られた。急坂を登りつめると、5軒ほどの村が有った。仏塔が二つ有った。村人が農作業をしていた。村からは斜面を横切る道を進んだ。上方には放牧の羊がいた。雨がポツリポツリと降ってきた。ガイドのN氏が我々にゆっくり来るよう言い残して急いで先に進んで行った。ガレの道を通って斜面を進んで行くと、この日のテント場に着いた。N氏達がテントを設営していた。すぐ上に放牧時の小屋(カレカ)が見えた。夕食前の休憩時間にポーター達がたき火をしていたので我々にもたき火を作ってもらった。我々のたき火を見てポーター達が枯れ枝を集めてくれた。枯れ枝は太いものでは直径10cm以上有った。小雨が少しだけ降った。夜は星空だった。
- 11月11日、最初は広葉樹の森の登りだった。標高2500m付近に小屋が有った。登りつめると稜線の平坦地だった。ダウラギリとアンナプルナが見えた。記念撮影をした。しばらく草地を歩いた後、左下がりの斜面を横切る道になった。広葉樹の森だった。標高2700m付近を登り下りした。目標の峠はなかなか見えなかった。最後に少し登ると目標の峠に着いた。休むには狭かったのでそのまま通過した。峠からは急な下りになった。草地が出てくると、下から登って来た放牧ヤギの群れとすれ違った。放牧地を下りきると、放牧小屋(カレカ)が有った。数人地元の人がいた。昼食休憩になった。休憩中にも羊の群れと牛が2頭通った。昼食休憩後、尾根を回り込むと下に学校が有った。バスケットボールのコートが有った。クイネカーリ(Kuinekhari)集落が近づくとガイドが携帯を使い始めた。自分の携帯はあいにくつながらなかった。クイネカーリではポーター達が米を買っていた。戸数200位の大きな集落だった。道は町の中の階段を縫うように通っていた。罠にかかった山猫の死体が村の小広場に置かれていた。村外れでは料理長が農作業中の住民から青菜を買っていた。大岩の多い所で休憩した。休憩後、少し下って沢を渡ってから少し登り返してトラバース道を歩いて行った。子供二人をすれ違った。枝にトゲの多い潅木が所々に有った。尾根に出たところは民家の近くだった。親子がいた。ガイドのP氏がお母さんに飴を上げていた。尾根を少し登ってから更にトラバース道を進み、沢を渡って対岸の斜面のテント場に着いた。ガイドのN氏が2週間程前にテントを張った場所だったが、水が涸れそうだった。更に200-300m先へ進んだ場所にテントを張った。ポーター達の食事は我々とは別だった。たき火をたいて自分たちで作っていた。最初は火が点きにくいので、燃料の石油をポリタンの蓋に少しだけ入れ、まだ煙だけでくすぶってるたき火にかけて火をおこしていた。そして米と水を入れた鍋をたき火にかけていた。テント場では携帯が通じた。
- 11月12日、この日のテント場は眺めが良いとの事のため早めに出発した。最初、斜面を斜めに登った後、尾根を回り込んでからは斜めに下った。マランパラ(Malampara)村が見えてきた。休憩時、Kさんのサングラスのレンズ片方がいつの間にか外れて無くなっていた。回りには見当たらずあきらめて出発することにした。全員出発後、ガイドのP氏は何も言わずに一人探しに戻ってくれた。どこまで戻ったのかしらと心配しているうちに30分程してから追いついて来た。あいにくとサングラスのレンズは見つからなかったとの事だった。マランパラ村には行かず、沢を木の橋で渡って谷沿いに進んだ。村からの道の合流点に3人分のポーターの荷物が置いてあった。村へ買い物に行ったらしかった。標高2400mまで登り水の有る場所で休憩した。ポーターが一人右寄りに行きすぎていたのでガイドのN氏が声をかけて修正していた。標高2720m地点へは沢沿いの急登だった。高さ10m程の滝のそばを通った。最終水場で料理人達が我々の昼食用の水を湯たんぽに入れて汲んでいた。谷を登りつめると稜線に出た。樹林に囲まれていた。左手へ2-3分進むと放牧用の小屋が有り、展望が開けた。ダウラギリⅡとジルバン(Jirbang)が見えた。稜線の右側を進んで行った。緩い登りだった。一度鞍部に出た後、更に進んだ。二度目の鞍部は広い場所でこの日の目的地デウラリ(Deurali(峠の意))(標高3100m)だった。先着の二人のポーターは80m程下の広場にいたが、眺めの良い鞍部に戻ってもらった。テント設営後、昼食になった。ガイドのN氏と一番若いポーターP君がポリタンを持って左下の谷へ水汲みに行った。1時間以上かけて、二人で40リットルほど汲んできた。二人が水を汲んでいる間に、鉄砲を持った20歳代の精悍なハンター4人が通った。午後は休養だった。たき火をした。ポーターやガイドN氏が10cm以上の太さの枯れ枝を集めてきた。周囲は針葉樹の森だった。枯れた木が多く、たき火には困らなかった。いつの間にか雲が出てきて山は見えなくなってしまった。夕食前にはたき火を囲んで乾杯をした。少し寒かったので借りてきたダウンジャケットを着た。
- 11月13日、朝は天気が良く、ジルバンが見えた。最初は斜面の下りだった。滝が有った。岩のトラバースになると登り返しが有った。展望の開けたところで小休止した。更に広葉樹林帯を下って行った。標高2700m付近から鳥の鳴き声が多くなった。放牧地のような開けた場所で休んだ。シンコス(Singkos)谷の沢を木の橋で渡った。上流に滝が見えた。対岸を進んで行くと、小屋や農地跡が有った。タバコやマリファナが生えていた。ガレ場手前で小休止した。休憩後、ガレ場を横切って進むと滝横の絶壁になった。絶壁の中程には大きさ50cm程の蜂の巣がいくつかあった。シンコス集落の手前にはクルミの木があった。クルミの実がたくさん落ちていた。シンコス集落で昼食にした。村の女性が1m四方位の石板を背中に積んで運んでいた。シンコスからの下りは急坂だった。休んだ所で40歳代の男性住人二人に会った。「ダウラギリサーキットか」と聞かれ「ベースキャンプまで」と回答した。谷に下りると、右手には下の方が霧になって谷に落ち込んでいる滝が見えた。吊り橋を渡ると最奥の集落ジェルタン(Jeltung)に着いた。戸数20戸ほどの小さな集落だった。車の道は無く、最短でも歩いて丸一日かかる場所だった。我々は更に遠回りして隣の谷から峠を越えてきたので6日かかっていた。ロッジが有った。ガイドのN氏と知り合いらしく話し込んでいた、庭先にニワトリが10匹ほどいた。ポーター達も休んでいた。ガイドのN氏を置いて先に出発した。民家の軒下には子供をあやす若いお母さんが二人いた。集落外れでは25歳くらいの男性が牛を使って畑を耕していた。集落の先は黒部渓谷を思わせるV字谷になっていた。道は、いったん100m程登って谷を巻いていた。見晴らしの良い場所まで登って休んでいる時にN氏が追いついてきた。下りになると急な絶壁になった。途中で夏道が左上に分かれていた。ガイドP氏によれば、夏は増水して河原の道が歩けなくなるとのことだった。崖っぷちを下って行くと河原に出た。川の向かいには温泉が有ると言う。村人達も冬の間に湯治に来るそうだ。水量の多い夏の間は流されて橋が無いそうだが、今回はトレッキング開始時にガイドが村人に連絡し、なにがしかのお金を支払うことを条件に橋を架けてもらっていた。真新しい橋を渡って温泉に着いた。最初にポーター達がテントを張っていた場所が湯船から細い坂道を30m程登った管理棟の前だった。ガイドP氏が指示して湯船やトイレに近いあずまやの中に張り直してくれた。温泉は屋根の付いた湯船があるだけだった。屋根は上からの落石が危ないとのことで後で付けられたものとの事だった。混浴で、ネパールでは服を着たまま入るとの事だった。我々も短パンを着たまま入った。ちょうど適温の湯で、長い時間、ゆっくり浸かっていられる温泉だった。日本では「何々温泉」と、すぐに固有名詞が付くが、ネパールの温泉は固有名詞が無い。それどころか「温泉」という単語も無く、単に「温かい水」を意味する「タトパニ」と呼ばれていた。「タトパニ」にゆっくり浸かって6日間の汗を流した。
- 11月14日、前日長く歩いたので、この日は目的地をタリトレ(Talitre)からドバン(Doban)に変更する事にした。木の橋を渡り、河原を100m程歩いてから道に上がった。ガレを通ると迂回してきた夏道に合流した。大きな滝を左に見ると、すぐに放牧小屋(カレカ)が有った。更に緩く登っていくと再び放牧小屋(カレカ)が有った。水牛と人がいた。ガイドのN氏が牛乳1リットルをペットボトルに入れて購入していた。ここにはリブシバ(Libsiba)との標識が有った。緩い登りが続いた。大きな沢を渡った。ダパーチャ(Dhapacha)と思われる放牧小屋(カレカ)で昼食休憩を取った。久し振りに長い休憩時間だった。昼食後、しばらく登るとガイド一人に連れられた50歳代の西洋人夫婦のトレッカーとすれ違った。後でガイドのP氏に確認すると、イタリアンベースキャンプに泊まってジャパニーズベースキャンプを往復したらしかった。地元の二人ともすれ違った。単調な登りが続いた。左側に崖が有り、蜂の巣が有るとの事だったが、よく分からなかった。宿泊地のドバン(Doban)は谷の分岐点で広い場所だった。ロッジはガイドのN氏の弟が管理しているとのことだった。2歳くらいの子供がいた。我々4人はテント泊まりだったが、ガイド、ポーターはロッジ泊まりだった。15時頃から夕立になり、雹が降った。土砂降りの中、テントの回りでガツガツ音がするので外をのぞいてみたら、ポーターのP君が濡れながらピッケルを使ってテントの回りに雨水用の溝を掘ってくれていた。それでも水浸しになったテントのせいでMさんだけはロッジに泊まりになった。夕食はロッジ内で食べた。夕食後、これからの高所トレッキングに備えてダイアモクスを半錠飲んだ。雨は19時頃にはやんだ。