• 11月15日、トレッキングも後半に入った。昨晩に続いて、朝、高山病の予防薬ダイアモクスを半錠飲んだ。荷造りをし、ポーター達に引き続いてドバン(Doban)を出発した。最初に50m程下って本流を渡り、左岸に出た。不安定なガレ場を登った後、歩きやすい山道になった。樹林帯だった。高い松の木が多かった。サルオガセが垂れ下がっていた。タリトレ(Talitre)谷には高さ1.5m位のケルンが建っていた。谷を渡るとすぐにタリトレカルカ(Talitre Kharka)に着いた。ポーター達が火をたいて休憩中だった。更に樹林帯を登りガレ場を二度ほど通るとサラガーリ(Sallaghari)に着いた。昼食休憩になった。日が照り、行く手には白い山が見えた。サラガーリから先、しばらくは眺めの良い草地だった。標高が高くなったので深呼吸しながら登った。やがて再び樹林帯になった。前日の雪が1-2cmうっすらと積もっていた。イタリアンベースキャンプが近づくと木はなくなり視界が開け草地になった。イエローポピーの枯れ草やバラの潅木が有った。やがてイタリアンベースキャンプ(3600m)に着いた。立派な小屋が有った。小屋前の積雪は1-2cmだった。スイスからの20歳代の女性二人組のパーティが先着していた。ダウラギリサーキットを歩くとのことだった。ダウラギリが右手にそびえていた。地図からはダウラギリの8000m地点の絶壁が始まるところが見えているらしかった。8167mの山頂そのものは山頂部が平坦なので見えていないようだった。絶壁の8000m地点までのイタリアンベースキャンプからの直線距離は地図上では4200mだった。イタリアンベースキャンプの標高は3600mなので比高差は4400m。4200mの距離で4400mの高さを見ていることになり、45度よりやや多い仰角で見上げている事が分かった。夕方にはダウラギリが赤く染まった。夕食は小屋の中で食べた。高地なのでお酒(ロキシ)は少量にした。小屋の中では火をたいていので食後にあたらせてもらった。夜は星空がきれいだった。湯たんぽか配られ、寝袋の中に入れて寝た。時々雷鳴のように雪崩の音が聞こえた。
  • 11月16日は高所順応でイタリアンベースキャンプに連泊する事にした。朝食後、キッチンスタッフが粉石けんを使ってゴシゴシと食器を洗っていた。冷たい水で素手で洗うのは大変そうだった。スイスからのパーティは8時過ぎに出発していった。我々は軽い荷物でガイド二人と伴にキャンプ周辺の散策をすることにした。谷の左岸の丘に向かった。積雪は1-2cmで一部で滑りやすかった。手が冷たくなったので途中でオーバー手袋を付けた。標高3770m地点まで登って引き返した。下りではようやく日が差してきて暖かくなった。午後は休養だった。日が差して暖かになり、テントの周りの雪はすっかり溶けた。温かくなった午後の小屋前で、ガイドやポーター達がトランプを始めた。白熱した様子で、3時を過ぎて日が陰って寒くなってきてからも続いていた。夕方には霧が出てきた。
  • 11月17日、標高3600mのイタリアンベースキャンプから4100mのジャパニーズベースキャンプまでが今回のトレッキングの山場だった。荷物が少なくなったので、ポーターは8人中2人がイタリアンベースキャンプで留守番することになった。今までサンダル履きだったポーターもこの日は運動靴を履いていた。最初の氷河への下りは三日前の雪が1-2cm積もってい滑りやすかった。留守番のポーターのうちの一人が下までサポートしてくれた。KさんはガイドP氏から軽アイゼンを借りて下った。ストックをしっかり突いて慎重に下った。寒いので途中でダウンを着て、オーバー手袋を付けた。何とかダウラギリ側から落ちてくる氷河の上に出てほっとした。谷を埋める氷河の上を通って谷の対岸へ渡った。しばらく絶壁の下をトラバースする道になった。トラバース道が終わって草地になった所で一休みした。暑くなりダウンを脱いだ。一休み後、すぐにスイスベースキャンプを通った。谷は氷河の圏谷(U字谷)になった。両側が2000-4000m切り立っていた。谷底の河原の平坦な道を進んで行った。積雪は1-2cmだった。ここはダウラギリ側から落ちる雪崩の危険地帯との事で、先頭を歩くガイドのN氏は、「ビスターリ、ビスターリ(ゆっくり、ゆっくり)」と言いながら、全く休んでくれなかった。左からの水の流れが2箇所で有り、石伝いに渡った。結局、小尾根の有る安全地帯に着くまで1時間半近く歩き続けになった。更にしばらく進むと氷河末端に着いた。先着していたポーターのうちの二人がサポートに戻ってきてくれた。氷河末端からは水がポタポタ落ち、氷河内の20cm位の岩が落ちそうになっていた。ポーターのサポートを受けて氷河末端の沢を渡った。ガイドN氏によれば、氷河末端の左手の斜面の踏み跡から9月にポーターが落ちて亡くなったとのことだった。氷河上の登りでは、サポートに来た二人のポーターがMさんとKさんの荷物を持ってくれた。瓦礫を登って行くと、ジャパニーズベースキャンプに着いた。石屑がゴロゴロしていて、一見したところでは氷河の上とは思えなかった。ガイドのP氏によれば、以前は平らで、うっすらと土がかぶって草が生え、キャンプ適地だったとの事だった。氷河の溶解と供に、でこぼこになったのか、あるいは上流側にキャンプ地そのものが移動した様子だった。食堂テントが斜めだったので、P氏の指示で平らな場所に移動した。移動が終わると遅めの昼食を取った。夕方、ダウラギリの稜線に半月が見えてきれいだった。夜間は利尿作用の有るダイアモクスの影響も有りトイレに4回起きた。
  • 11月18日、朝のテント内の温度は0.9℃だった。朝食後、テントが撤収された。トイレテントをたたみ穴を埋めると、どこにトイレが有ったのか分からないほど真っ平らになった。イタリアンベースキャンプに向かって帰り道を進んだ。氷河末端まで来ると、昨日落ちそうになっていた岩は、まだ氷の中に有った。氷河が終わると美しいU字谷を見ながらの歩きになった。10時になって、ようやく日が差してきた。振り返ると後方の白い山は曇って見えなくなっていた。昨日同様、小尾根からスイスベースキャンプまでは1時間以上休み無しで歩いた。スイスベースキャンプからは崖下の道になった。イタリアンベースキャンプの留守番ポーターのうちの一人がピッケルを持ってサポートにきてくれた。急な下りには雪が付いているのでステップをピッケルで作ってくれた。氷河の上を通って右岸から左岸に渡り、急な登りに向かった。昨日通った道は危険とのことで斜面の草付きを迂回して草を掴みながら登る事にした。雪は1cm弱積もっていた。行きに通った道に戻ると、石で行きの道に通行止めの表示がされていた。我々のポーターのうちの誰かが設置したらしかった。イタリアンベースキャンプでは30歳くらいのフランス人男性4人組が登って来ていてテントが張られていた。ダウラギリサーキットを行くとの事だった。フランス人パーティのガイドに我々全員の写真を撮ってもらった。小屋の中に入り昼食休憩を取った。ガイドN氏は新しい靴の底が取れていたので修理をしていた。前回ドイツ人グループを案内した時に買ったばかりとのことだった。休憩も終わり、全員そろって下り始めた。草地をしばらく下ると樹林帯になった。単調な森の下りが続いた。再び草地に出るとプリムラが一輪咲いていた。行きに昼食を食べたサラガーリ(Sallaghari、松の森の意)でテントを張った。P氏は、出入りする場所が狭くなってしまったテントが有ったので90度回転して張り直させてくれた。ガイド、ポーターはロッジに宿泊した。夕方、ポーター達がたき火をしていた。温かそうなのであたらさせてもらった。ポーター達は、火の粉が飛んでかかりそうになる中、陽気に歌を歌っていた。この際だからと、我々はゴミ袋に入れていた紙ゴミやプラ製のお菓子の包み紙を燃やす事にした。ゴミは景気よく燃えた。ねらいが狂い、そのうちの一つがひらひらとたき火の熱で10m位舞い上がって暗闇に消えていった。それを見たポーター達がいっそう陽気になった。夕食のつまみは、小屋番が前日採った鹿のもも肉だった。フランス人グループも鹿肉を購入していったとのことだった。この日からは湯たんぽ無しにした。高所順応がうまく行ったせいか、結局、高度障害は出なかった
  • 11月19日、最初は針葉樹林帯の下りだった。P氏によればコブレサラと言う松の木との事だった。葉っぱを見た感じでは松と言うより樅の木に近かった。針葉樹林が続いた後、広葉樹の森になった。タリトレ(Talitre)に着いた。無人小屋が有った。N氏は、もう少し歩きたいと先に進んで行った。我々が休憩後に1-2分歩くとN氏が休んでいるところに着いた。どうやらN氏は更に2-3分先の眺めの良い沢で休みたかった様子だった。沢は上方に6000m峰を望む展望の良い場所だった。更に下って行くと、30歳位の西洋人とガイドの2人のパーティとすれ違った。ダウラギリサーキットとアンナプルナサーキットを一度にやるとの事だった。行きに宿泊したドバン(Doban)でガイドN氏にミルクティーをご馳走になった。ドバンからの下りでは谷の反対側に長い滝が何本も見えた。水場に出たところで昼食休憩になった。水場からの下りも樹林帯だった。猿が何匹かいた。放牧小屋(カレカ)をいくつか通り、夏道を右上に見送ると河原に出た。河原を100mほど下ると温泉への橋の所に着いた。ガイドN氏は今日は出身村に戻って泊まるとの事で、ここでいったん別れた。14日間でこの日だけは別行動になった。橋を渡ると温泉に着いた。行きと同様、あずまやの下にテントを張ってもらった。P氏は30cm位の大きな石がテント横にぶつかっていたので、持ち上げて脇に移動してくれた。湯の栓が抜けていたので、湯船が満たされるまで少し待った。着いた時は管理小屋は無人だったが、N氏が連絡してくれて、やがて管理人が村からやって来た。夜のお酒(ロキシ)は管理人から購入した。
  • 11月20日、この日は長いので早めに出発した。最終集落ジェルタン(Jeltung)への途中、最高地点近くで振り返ると白い山が見えた。ジルバン(Jirbang)との事だった。ジェルタン集落は休まず通過した。可愛い5-6歳の子供達3人が寄ってきた。こちらから「ナマステ(こんにちは)」と挨拶をすると、「ナマステ」と返事を返された。ところが、そのうちの一人から「Give me sweet」と言われた。「ろくでもない言葉を覚えて」と独り言を言いながら子供達から遠ざかると、聞いていたP氏が「お菓子をほしかったんでしょう」と子供達のために言い訳をしていた。P氏の優しさが垣間見えた思いがした。登り返しには青い花が咲いていた。P氏によればティービ-と言う花との事だった。谷には鳥の群れが飛んでいた。次の集落、バルガル(Bargar)の下でN氏と合流した。この村がN氏の出身地との事で今はお兄さんが住んでいるとのことだった。N氏のお兄さんが見送りに来ていた。P氏にスマホを渡していたので、P氏に頼まれて充電もしていた様子だった。ティービー咲く道を登っていくと道が右カーブしているところで展望が開けた。ここでようやく携帯が通じた。ガイドの二人もしきりに携帯を使っていた。風が涼しかった。斜面の切り立ったところを登り下りして進んだ。P氏によると5-6年前にできた道で、以前は上の方を巻いていたとの事だった。ほこりだらけの険しい道が続いた。一部ガレが有った。次の集落が近づくと、地元民3人が追いついて来た。N氏の知り合いらしく、そのうちの一人に自分の荷物を持っていってもらった。手ぶらになったN氏は代わりにKさんのザックを持ってくれた。ナウラ(Naura)集落を過ぎたところにロッジが有り、昼食休憩になった。抜いていった地元民は先へ進んだ様子でN氏の荷物だけが置かれていた。休憩後は川沿いの道を進んで行った。対岸に滝を見た後、吊り橋で左岸に渡った。左岸の道を進んで行くと対岸の奥にダウラギリの西側の山と思われる白い山が見えた。カームラ(Khamla)集落のロッジで一休みした。25歳くらいの若いロッジ主人はテラスをパソコン作業をしていた。N氏がロッジ主人からミカンをもらい、我々に分けてくれた。次の集落カーラ(Khara)がトレッキング最後の宿泊地だった。ロッジは狭いので我々は隣のバナナ畑の下にテントを張ってもらった。夜の打ち上げに備え、ガイドP氏がロッジからお酒(ロキシ)を購入した。料理長は、隣りの農家から羊を1匹購入した。ガイドP氏によれば、ニワトリ2匹と羊1匹が同じ値段だったので羊にしたとのことだった。挨拶で使うためP氏からネパール語の「また会いましょう(ベタウンラ)」を教えてもらった。暗くなると、いよいよ打ち上げが始まった。乾杯後、まず我々4人から参加者全員に14日間のお礼の気持ちを込めてチップを渡した。場が盛り上がったところで、ポーター達がネパールの踊りと歌を披露してくれた。「レサムピリリ」と言うネパールでは誰でも知っている歌だった。我々も日本の歌「上を向いて歩こう」を歌った。ガイドのP氏も日本語を習った時に最初に教わった歌との事で喜んでくれた。最後はポーター達に混ざって、腰をくねらせながらネパールの踊りを一緒に踊った。踊りで盛り上がったため挨拶はせず、教えてもらった「ベタウンラ」も使うことは無かった。宴会も終わり、我々はめいめいののテントに戻った。バナナ畑は月明かりに照らされて明るかった。寝袋に入りテントの布に映るバナナの葉影を見ながら眠りについた。
  • 11月21日はトレッキングの最終日だった。暗いうちから朝食を取り、明るくなるとすぐに出発した。N氏は荷物をロッジに預けたらしく、手提げ袋だけの軽装だった。代わりにKさんの荷物を持ってくれた。料理長が手につり下げていた卵は、無事全部食べ尽くして無くなっていた。すぐに谷の斜面を横切って進む道になった。ポーター達が休んでいたところから振り返るとダウラギリが見えた。最後に少し下ると車の待つ車道の終点に着いた。ポーター達が荷物を積んでいた。小屋が道脇に有り、住んでいる家族が我々の作業を珍しそうに眺めていた。N氏は、今日は歩いて実家に戻り、カトマンズには5日後に帰るとの事だった。そして我々に手提げ袋の中味のバナナ一房をくれた、一人道を登って戻って行くN氏の後ろ姿を見ながら「14日間ありがとう」と心の中でお礼を言った。荷物を車に積み込み終わると、我々トレッカー4人、ガイドP氏、料理長、ポーターP君が車に乗り込んだ。他のポーター達はバスの有る村まで歩いて帰るとの事だった。ポーター達と別れる時、P氏がこっそり「昨日使わなかったけれど、また会いましょうはベタウンラです」と思い出させてくれた。ポーター達に「ベタウンラ」と言いながら手を振って別れを告げた。9kmほど荒れた道を車で走り、バスの通るダルバン(Darbang)に着いた。料理長とP君が荷物と伴に下車した。P君とは握手して別れた。我々4人とP氏、それぞれの個人装備だけを載せて身軽になった車はポカラへ向かった。ポカラでは飛行機が遅れ、カトマンズに着いたのは予定の3時間遅れだった。
  • 11月22日は、カトマンズ観光後、夜の飛行機に乗った。クアラルンプール経由、成田には23日の夕方に着いた。