Bi-Weekly Column 1/8「Eye from the SHOT
自分に足りないものを知ることが 山口に「詰め将棋」を会得させた


 右見て、左見て、もう一度右を見て、おまけにまたもや左を見る。
 山口素弘が、グランパスの赤いユニホームで登場した対F・マリノス戦(2月27日=豊田、1−1)で、一体どのくらい首を振りながら視野を確保しているかを確かめてみることにした。
 移籍したばかりだけに、いつもよりも憤重になっていることは明らかだが、それにしても、山口ほど「周囲」に神経を配っている選手もそういないだろう。
 サッカーに限らず、スポーツでは一見簡単そうな「見る」ことの精度が、勝敗や成長を左右する極めて重要な要素になる。足が速いわけでもない。むしろ遅い。肉体的にも決して頑丈なわけでも、ことさら華やかな技術があるわけでもない。しかし山口は、この「見る」というシンプルな力を最大限に利用して、ここまで上り詰めたのではないだろうか。
「才能っていうのは、持っている人にとってはきっと、どうってことないものなんだよね。でも、ない人間にとってみると、これはもう、ただ、ただうらやましいの一言」
 笑いながらこんな話をしてくれた。
 高校、大学時代は、足の速い選手たちの才能に村して強烈に憧れを抱いた。テレビや、ビデオで好んで見ていた海外のサッカーで「突飛ぶオランダ人」ヨハン・クライフを知る。彼のプレーひとつ、ひとつの独創性と同じくらい、足の速さが一層うらやましかった。
「俺だって、あのくらい足が速ければね、クライフくらいのプレーなんてお任せ……、なーんてね」
 山口はまた笑い出した。
 加茂周・元日本代表監督はかつて、こんなことを言っていた。
「山口という選手は、詰め将棋のような判断を瞬時にする。足の遅さを、頭の回転の速さで見事にカバーしてしてしまう」
 ピッチの隅々までを「見て」、次の、そのまた次の次までの展開を予想し、詰め将棋を完成させる。山口のプレーの基本である。
「才能はない、と思ったところから、どうやって生き残れるか必死で考えるからね。自分はそうだった」
 何かが足りない、と思ったとき、あるいは、自分には足りないものは何か、が潔く自覚できたとき、競技者はより強じんになる。
「引き算の美学」とでも呼べばいいだろうか。

(週刊サッカーマガジン・'99.3.24号より再録)

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