アテネ五輪期間中連載コラム

「アベベを夢見たゲブレ
 彼の日々はただ、脚との対話のみ」


アテネ五輪
第16日
 脚は大丈夫ですか、と聞くと、彼は、大丈夫、ほら、傷はあるけれど、と、3年前に手術したアキレス腱を無造作に見せる。太く、深く、何かを訴えるかの様なメスの痕に言葉を失ったが、身長160センチの小柄な男は、真っ白な歯を見せ、人なつっこい笑顔を返す。

 20日の陸上男子一万メートルで、かつて18回にわたって世界記録を更新、五輪2冠を果たしたハイレ・ゲブレシラシエ(エチオピア)が、母国の若手2人に金、銀を譲り、5位でレースを終えた。史上もっとも偉大なランナーと世界で敬意を集める彼が、アテネ五輪を最後にトラックに別れを告げるという。寂しい。今後はマラソンに本格的に転向する。アベベと同じ東京を、マラソンで制することが、次の夢だ。

 アベベ・ビキラを夢見たゲブレは、エチオピアの荒れた高地を、31歳の今日まで連日30キロを走り続けてきた。休日は1日もない。マッサージも、科学的データも栄養剤もない。音楽を愛し、妻と静かに食事を摂る。彼の日々はただ、脚との対話のみだ。「忍耐」──。彼の信念はそのまま記録映画となったが、公開された8年前から今もなお、忍耐は少しも変わらず続いて来たのだ。

「ベテランと呼ばれる選手が静かに五輪の舞台を去って行くのを見るのはちょっとつらいね。でも終わりじゃない。遺したものは生き続ける、僕がアベベに教えられたようにね」

 シドニーまで五輪3連覇の偉業を果たしたやり投げのヤン・ゼレズニー(チェコ)も、26日の予選を通過し、最終日の決勝に進出している。38歳になった彼もまた、4年前に肩の腱を切断、大手術を受けた。世界選手権で取材をした際、彼にも肩を見せてもらったことがある。30センチほどの深い傷痕は、悲鳴のようでもあり、揺るがない自信の塊にも見えた。引退は、投げたくなくなった日にする、と言っていたが、どうかまだ先であってほしい。

 メダルの数は祝福されるべきだ。しかし一方で、数えられない業績は記憶と生きる。
 ゲブレの「不屈の脚」、ゼレズニーの「不屈の肩」。ベテランと言われる彼らが世界に見せた「不屈の魂」。じっと、目に焼き付けている。

(東京中日スポーツ・2004.8.28より再録)

※五輪開催期間中の金曜日は連載コラム「セブンアイ」として掲載されています。
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