4月16日


☆Special Column☆
「走るために、走る」
〜ボストンマラソンを前に

 19日のボストンで、有森裕子(32歳=リクルート)がアトランタ五輪以来、実に約1000日ぶりのマラソンを走ります。
 彼女が3年ばかりレースを走らない間、日本最高記録も更新され、彼女の持っていた2時間28分台の記録は、あっという間に日本歴代記録のベスト20からも消え去っている、そんな状態です。
 しかし、記録は必ずしもそのランナーの「底力」を示すものではない、という点において、今回の挑戦は非常に楽しみでもあります。
「以前ならば、何のために走るのか、それを考えていたと思う。でも今回は、走りたいから、ではなくて、走らなければならないから出場する、そう考えることを自分に科してみました」
 今回の復帰レースにあたり、有森からこんな話しを聞きました。

 スポーツ選手たちは、或いは周囲は、それが個人競技でも団体競技でも、「モチベーション」という言葉をよく使います。タイトルを取ること、優勝すること、メダルを手にすること、記録を更新すること、様々な動機があるとは思います。
 しかし、一方ではこの「動機」が、選手たちを惑わすものでもあるのです。動機がなければ競技生活は一体どうなってしまうのだろう、という、非常に根本的な問題をも抱えるからです。
 92年のバルセロナ五輪で銀メダルを獲得した後も、有森は3年間走ることができませんでした。本人も後に回顧したように、これは、何のために、なぜ、今まで以上に走るのか、そういった動機が心の中からなくなってしまったからでしょう。
 その間、かかとの手術に踏み切り、様々な体験をする中で、自分がスタートラインに立つ意味、を見つけ出していきます。
 95年の北海道マラソンで復帰をしたとき、「生きていて良かった」と思わず涙ぐんだのは、この動機を求めての戦いがいかにすさまじいものかを物語っていたと思います。
 そして今回もまた、アトランタ五輪で銅メダルを獲得してから、3年が経過したところで、復帰レースに挑むことになりました。
 しかし今回は、少し様子が違うように思っています。それは、動機なき動機、とでも言いますか、彼女がランニングのプロフェッショナルとして、「走らねばならないから走る」という非常にシンプルでかつ、力に満ちた答えを出したからに思えるからです。

 海外の選手たちが、例えば五輪でメダルを取ったとします。しかしその何ヶ月か後、当たり前かのように賞金レースに出て、ビッグレースを制すると同時に、記録を更新してしまいます。そして、アトランタ五輪で金メダルを獲得した後のロバ(エチオピア)のように、翌年のボストンで改めてその実力を実証してしまうなど、メダル以降にさらなるステップを作りあげてしまうのです。
 過去、女子マラソンの歴史を築いて来た、クリスチャンセン、グレテ・ワイツ(共にノルウェー)、女子マラソン初代女王のサミエルソン(米国)、ソウル金のロザ・モタ(ポルトガル)、銀のリサ・マーチン(当時豪州)、今なお活躍するドーレ(ドイツ)、バルセロナ金のエゴロワ(ロシア)、ロバ、みなそうやって、五輪を駆け足で通過して、次のタイトルをも手にしてきました。
 彼女たちの肉声を取材する中でも常に、彼女たちの口から「一体何のために走るのか」という哲学は聞いたことがありません。当然、日々の苦しいトレーニングは彼等にとって「生活」のためであり、それは、サラリーマンが仕事をするのに、一々モチベーションなどと口にしないことにも似ているのです。
 もう15年陸上を取材してきましたが、日本女子のすばらしい躍進には感嘆し大満足はしつつ、しかし、あとひとつ「何か」、を有森や山下佐知子(第一生命監督)ら先駆者に望んでいたとすれば、それは、世界のトップランナーたちが示して来た「モチベーション不用」とでもいえる思想の強さを、見せてもらいたい、との願いでした。
 五輪のメダルは十分な成果です。一方では負けようが勝とうが、世界クラスの中に、レースの中に、常に日本の女子ランナーを見ていたい、そんな贅沢な願いでもあります。

 走るために走る、野球のために野球をする、サッカーのためにサッカーをする。こうしたことを言ってしまうと、あまりにも当たり前過ぎて、少しも面白くはないかに聞こえます。しかし、モチベーションなどというものを一々求めない、それを頼りにしない、その競技のためにだけハングリーになり、追求を続けて行く。これこそがプロフェッショナルの思想なのかもしれません。
 有森は32歳になりました。
 もう1点、記者として願っていたミセスランナーとしても、日本の女子選手の歴史に新たな一歩を踏み出してくれると思います。2人のことについてはまた騒がれるかもしれません。しかし、誰と一緒であっても、本人たちが良ければそれ以上何を望むのでしょうか。
 実業団という団体から離れた個人として、コーチ、ランニングパートナー、トレーナー、栄養士などサポートメンバーを自ら雇って「チーム」を作る方法論のプロとして、走るために走る、というどこまでもシンプルで強い思想を持ったプロとして、スタートラインに立ち、ボストンの42キロを走り切ると思います。 
「マラソンランナーにとって、レースの日は本当は一番楽な日です。365日のうち、364日がレースなのですから。もがいて、苦しんで、そしてスタートラインに立てば、笑顔だって浮かびます」
 有森はかつて、競技者にとって本番は自分への褒美なのだと教えてくれました。
 タイムや着順といった目に見えるモチベーション以外の価値や意義が、レースには存在するのだということを、このマラソンで改めて考えてみようと思っています。


 16日から21日まで、ボストンで取材をすることになりました。
 世界最古にして最高峰といわれる伝統のレースは、米国の19日午後、日本時間ですと20日の深夜から早朝にかけて行われることになります。テレビ放送もないようなので、みなさんのリクエストの様子を見て、またもや田中龍也氏に「超」深夜、「超」早朝勤務をお願いしようかと思っています。
 天気予報ではレ―ス当日は曇り、気温は14度くらいと、まずまずのコンディションのようですが、本当にどんなレースを見せてくれのる、彼女の職人技ともいえるレース運びが楽しみです。ロバの調子なども含めて、会見からも出稿できればと思っています。

 それでは皆様の健康を、シアトル国際空港でお祈りして。

4月16日午前10時   増島みどり

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