二重のショックだった。1月26日にワレリー・ブルメルが60歳の若さで死んだ。1964年東京五輪の金メダリストで、走り高跳び史上最多となる世界記録樹樹立6回という伝説的なハイジャンパーだった。それ以上にいたたまれなかったのは、その記事がわずか8行のベタ記事だったことだ。元陸上担当記者だった自分が所属する共同通信が配信した記事である。それはまずいだろうと思った。
月1回、前月に亡くなった著名人4人を選んで記事を送信する「追想―メモリアル」企画デスクに連絡、出稿を売り込んだ。OKが出た。字数は700字程度。とても書き尽くせる分量ではないが、ほっとした。掲載は共同通信加盟社に限られるが、歴史のかなたになりつつある冷戦時代の旧ソ連スポーツ界が生んだ“最高傑作"の死を、これでなんとか埋没させずに済むと思った。
▽波瀾万丈の人生
東京五輪のヒーローとして日本人に最も強烈なインパクトを与えたのは、マラソンのアベベ・ビキラ(エチオピア)と短距離のボブ・ヘイズ(米国)だったろう。そのアベベは交通事故で下半身不随になり、パラリンピックのアーチェリーに出場したが41歳の若さで亡くなった。金メダルを手みやげにプロフットボール入りして大活躍したヘイズは、コカイン絡みで服役。ガンで闘病の末に昨年、59歳でこの世を去った。東京五輪ではこの2人の輝きには及ばなかったが、波瀾万丈の人生と世界のスポーツ界に与えた影響力の大きさという点では、ブルメルは優るとも劣ることはない。
その死に対してロシアではプーチン大統領が追悼のコメントを出し、棒高跳びのセルゲイ・ブブカ(ウクライナ)が「1世紀に1人生まれるような人物」と最高の敬意を表していた。ロシア国民にとってきわめて大きな存在だったことはうかがえるが、ご存じない方も多いと思うので、ブルメルがどんな選手だったのか紹介したい。
▽18歳でローマ五輪銀メダル
シベリア・ルガンスク生まれで、10歳のころウクライナに移住。初の国際舞台だった18歳の1960年ローマ五輪で、いきなり銀メダルを獲得する。2m22という驚異的な世界記録を作ったばかりの天才児ジョン・トーマス(米国)を倒し、金メダルを手にした先輩のロベルト・シャフラカーゼとともに表彰台に上った。大観衆に萎縮して力が出し切れなかったトーマスと対照的に、1歳若いブルメルはフィールド内で静かに本を読んで心を鎮めていた。後に「鋼鉄の神経」と評された大舞台での勝負強さはブルメルの持ち味ではあったが、力学、生理学だけでなく心理学にまで研究領域を広げていたソ連スポーツ科学の成果でもあった。
当時の跳躍スタイルはベリーロール。助走の最後に大きく腰を沈めて突っ張るように踏み切り、上昇力を増すために反対脚と両腕を大きく振り挙げて腹ばいになる形でバーを越える跳び方だ。背中側でバーを越える現在の背面跳びとは裏表が逆になる。186cmの身長はトーマスより10cm低く、走り高跳び選手としては小柄な部類だったが、100m10秒5のスピードと抜群の運動能力を兼ね備えており、一時は10種競技で五輪出場かとも言われた。バスケットリングに足先が届くバネで一気に体を引き上げ、猫のような身軽さで舐めるようにバーをかわす高度な技術を身に付けていた。
▽宇宙飛行士ガガーリン並みの英雄
61年は2m23、24、25と世界記録を3度更新。同年に人類初の宇宙飛行士となったユーリー・ガガーリン少佐とともに世界をあっと言わせ、ソ連国民を熱狂させた。
米国大統領、ケネディとソ連共産党、フルシチョフとが激しいつばぜり合いを演じた米ソ対決の冷戦時代。軍備拡張に全力を挙げていたソ連は、宇宙開発とスポーツの両分野にもその持てる力を注いでいた。社会主義の優位性をアピールするのに最も効果的な分野だったからだ。キューバ危機で世界が緊張した62年は、世界選手権がない当時の事実上の世界一決戦、米ソ対抗で2m26に成功。敵地米国でライバルのトーマスを圧倒した。暗くて寡黙なイメージが強かったそれまでのソ連選手と違い、陽気でハンサム、ユーモアのセンスもあるブルメルは米国人も魅了した。
その年はさらに2m27をクリア。翌63年にはチャーミングな一線級体操選手、マリナ・ラリオナワさんと結婚した。スポーツ選手の結婚が話題になることがなかった当時、若いカップルの誕生の報はビッグニュースになった。同年7月にはフルシチョフ書記長らが見守るレーニンスタジアムで2m28のバーを征服する。2m15を越える選手が指折り数えるほどしかいなかった時代、それも土のグラウンドでの記録である。宇宙開発競争でもソ連がリードしていたこともあり、「人間衛星」ブルメルの名は世界にとどろいた。
▽栄光の絶頂から1年後の悲劇
64年の東京五輪。5時間の熱闘の末、再びトーマスを下して金メダルに輝いた。大会前は不調が続いた。来日後の練習でようやく越えた2m08のバーを、コーチが2m13と偽って自信を回復させたというエピソードが残っている。それでも、10月21日の決勝では苦しみながらも五輪新記録の2m18をクリアする。トーマスとは同記録で、勝負を分けたのは試技内容の差だった。だが、これだけ不調でも負けなかったことは驚嘆すべきことだった。
凱旋(がいせん)帰国したブルメルの人気はすさまじかった。しかし、栄光の絶頂からわずか1年、悲劇がヒーローを襲う。後部座席に乗っていたバイクが転倒事故を起こして右足を複雑骨折。「ブルメル重傷、再起不能」の悲報は世界を駆け巡った。ベリーロールの完成者はまだ23歳の若さだった。バイク好きはよく知られていたが、運転していたのが女性チャンピオンレーサーだったこともあってか、人もうらやむカップルだった妻ともその後に離婚…。メディアもファンも一斉に背を向けた。
▽宿敵からの激励で再起決意
どん底突き落とされたブルメルの元へ一通の電報が届く。「運命はときおり、人間の意思に対して試練を与えるものです。負けないでください。私は心からあなたがカムバックして、走り高跳びを続けることを希望します」。宿敵トーマスからの激励だった。優勝を期待されながら2度の五輪で金メダルを逃し、米国メディアとファンから酷評されていたトーマスとは、ライバルを越えた友人同士になっていた。
病院のベッドで再起を誓ったブルメルの長い闘病生活が始まる。「信念のない人生は送れない」。横たわったままバーベルなどで筋力トレーニングを続けたが、手術後に医師の指示を守らず歩いて転倒し再び悪化させたことも。初めの手術で3cm短かくなった右足は、3年間で32回の手術の末に元の長さに戻った。68年、再びグラウンドに立ったブルメルが、ようやく軽いトレーニングの末に跳んだのは、子供のころに初めて跳んだのと同じ1m40の高さのバーだった。
▽不屈の闘志で2m07をクリア
「弱気は選手を萎縮させる。スポーツファンは、たった1回の敗戦でくじけるような男を決して好きにならないだろう」。不屈の闘志で試練を乗り越えた男は、72年のミュンヘン五輪出場を夢見てトレーニングを続けた。事故から6年後、2m07のバーを越えた。だが、走り高跳び界はすでにベリーロールの時代ではなくなっていた。68年メキシコ五輪の金メダリスト、ディック・フォスベリー(米国)が自ら開発した背面跳びへと時代は移っていたのである。
ミュンヘン五輪が開催された72年、馬術の五輪候補だったエレナ・ペトシコワさんと再婚。闘病中からペンをとり、高さをいかに征服してきたか、競技者としての喜びと悲しみといった自らの体験をまとめていた。スポーツ心理学の博士号も取得。後年には劇作家としても成功した。処女作の「ナザロフ博士」は、かつてブルメルの脚を治療したほか、数々の奇跡的療法で知られるエリザロフ博士をモデルにしているという。
▽ソ連スポーツ科学の生きた見本
全盛期を前に選手生命を絶たれたブルメルだが、その後の世界スポーツ界に及ぼした影響はきわめて大きい。当時のソ連コーチからソ連式の練習をすれば2m40は跳べる、といわれたトーマスが素質を生かし切れなかったのに対し、ブルメルは幅広いスポーツで多面的に体を作り、投てき選手並のウエートトレーニングと多量の跳躍練習で高度な技術を完成させた。優れたソ連トレーニング理論の生きた見本だった。スポーツ王国東ドイツを筆頭に、合理的なトレーニング方法が世界各国に広まった。危機感を抱いた米国も巻き返し、薬物乱用という負の遺産は生んだものの、その後のスポーツ水準は飛躍的に向上した。
ブルメルがリハビリに苦闘していた69年に東京教育大学(現筑波大)体育学部へ入学した筆者は、棒高跳び選手だったが、合流させてもらっていた走り高跳びブロックのミーティングで、これらの理論の一端に触れて大いに刺激を受けた。ロシア語の授業を受け(すぐに挫折するが)、取り寄せたソ連の陸上雑誌「レッカーヤ・アトレチカ」を拾い読みして研究した気になっていた。部屋の壁にはブルメルの連続写真が貼ってあり、グラウンドでは誰かれとなくベリーロールの振込動作を繰り返していた。70年安保前後のまだ社会主義に未来があるとされていた時代、スポーツに係わっていた者にとっての生きた偶像だった。あらためて冥福を祈りたい。
日本サッカー協会は、一度は中止を検討した3月の米国遠征の再日程を発表した。3月26日、日本代表はウルグアイ代表と午後17時30分よりサンディエゴのクアルコム・スタジアムで、29日はアメリカ代表と午後13時よりシアトルのシーホークスタジアムで対戦する。
川淵キャプテンはこの日、米国遠征日程について「ウルグアイ戦は、その日に行なわれるパラグアイ対メキシコ戦の試合の前座に入ることで了承をされた。近くに大学の練習場もあり安全確保ができるということだった。収入うんぬんよりも、2試合ができることがもっとも重要」と、2試合を復活させた経緯を説明した。サンディエゴで行なわれるウルグアイ戦は、すでにパラグアイ対メキシコ戦(午後8時キックオフ)の切符が発売されほぼ完売の状態のため、追加で日本戦のみの切符販売などを行なうことは困難な状態だという。このため、入場売上げはなくなり、逆に運営費などを支払って試合をすることになる。看板と放映権(TBS)に関しては急遽認められたために、若干の収入はあるものの、もともと協会が主催する試合のためウルグアイへのギャラや移動の経費を持つなど、「赤字覚悟」となる。
また、外務省の危機管理ノウハウについてのアドバイスをもらい、保険金額や掛け方の検討も行なっている。こちらはもちろん「リスク覚悟」となり、キャプテンは「最高責任者として非常に頭が痛い。個人的には、昨年12月、米国遠征を決定する時点で、ジーコ監督に、(米国はイラク問題があって)危険だから辞めておこう、といえなかったことを反省している」とした。今後はこうした遠征、大会出場と世界情勢をリンクさせながら話を同時進行させるためにも、特別なマニュアルを作成していく方針を固めている。