「大きかった背中」
93年から95年に横浜マリノスを担当しました。最も印象に残っているのは95年。当時全盛を誇ったV川崎(現東京V)を破り、マリノスが最初で最後? のJ王者に輝いた年です。やむにやまれぬチーム事情からキャプテンマークを巻くことになった井原のリーダーとしての潜在能力が示された年でした。Jチャンピオンシップを制した直後の、当時2年目20歳のGK川口の言葉を今でも思い出します。「色々あったけど井原さんがいたからチームが一丸になった。井原さんのお蔭です」
95年はマリノスにとって激動の1年でした。94年を限りにミスターマリノスの木村和司が引退しました。監督も、志半ばでマリノスを追われた清水秀彦の後を継いだソラリは、好成績を残しながら家庭の事情で第1S途中で退団し、早野宏史へバトンタッチ。ソラリ在任中には川口登用に不満を示した当時の主将で日本代表GKの松永成立が退団、第1S後には水沼貴史も引退するなど、チームが揺れに揺れていた時でした。
そんなチームを落ち着かせたのが井原の存在。ベテランが次々と離脱して主将を務めざるを得なくなった状況にも、決して浮き足立つことなく、見事にチームをまとめ上げてマリノスをJ王者に導きました。「自分ができることをやった。背伸びはしなかった」。言葉でチームを鼓舞するタイプではない男は、行動で主将の責任をまっとう。アキレス腱、ふくらはぎ……、度重なる負傷をひた隠して、背中で、行動でチームを引っ張っぱりました。「井原さんがいるから、失敗を恐れずプレーできる。あんな凄い人が死に物狂いでやっているのだから、ボクらはそれ以上にやるしかない」とは当時ルーキーながら4バックの右サイドバックを務めていた松田直樹です。
マリノスでの経験がフランスW杯で主将を務めた日本代表でも生きたのは間違いないでしょう。磐田・浦和での苦闘も今後の糧になるはず。バランス感覚に秀でた男は指導者としても成功するでしょう。第二の人生の成功を確信しています。
「我等がまちゃみちゃん」
あえて、まちゃみ(正巳)ちゃんと呼ばせてもらう。それだけ我々担当記者の中で井原正巳は人気があった。というより信頼関係で結ばれていた。
それを裏付けた忘れられない言葉がある。
サッカー日本代表が初めて98年フランスW杯に出場を決めた時の我々に言ってくれた「ボクは、みなさんあの予選を取材した記者さん達も、戦友と思ってますよ」というセリフ。信じられなかった。仕事上、特にその当時はスポーツ新聞に在籍していた私は、あの予選の結果に一喜一憂した原稿を書いていた張本人だ。勝ったときには大騒ぎをして、負けた試合には戦犯をさがして徹底的に叩いた。それでも「戦友」と言ってくれたまちゃみちゃんのサッカー選手というより、人間としての器の大きさを感じた。
この男はいいヤツだと本当に思った。
確かに今年はW杯で日本代表選手は頑張った。だからこそ、日本中が盛り上がったと思う。でも、その中にはまちゃみチャンはいなかったのが残念でならない。トルコ戦で敗れた日本代表には大人の代表選手がいなかったのだ。中田英寿はすごい選手だけど、キャプテンと呼ぶのは今でも遠いと思う。まちゃみチャンがいれば勝てたとは、さずがに言えないけれどもあんな恥ずかしい試合はしなかったとはハッキリ言える。トルコに負けて泣きじゃくる選手をみてそう痛感した。
まちゃみチャンは98年フランス大会の予選の時にどんなに厳しいチーム状況の時にも必ず我々の前に出てコメントした。誰でもしゃべりたくない時がある。それでも井原は必ず自分の言葉で我々に訴えた。数多いプロスポーツの中で日本サッカー選手は「しゃべらない」ことが美徳になってしまっている。都合の悪いことには決して口を開かない。けど、まちゃみチャンは違っていた。我々記者達と体温を感じる付き合いをしてくれた。
そんなまちゃみチャンが引退をするという。まだ体は動く、ところがJ1のオファーはひとつもこなかった。それが現実と受け止めてユニホームを脱ぐという。
正直、残念だ。我々担当記者からみても確かに全盛期のプレーは、もう見れない。でも、ここまで培った『経験』はそれこそカズやラモス氏以上のモノがあると思う。
決して、人の悪口は言わない男だが、彼の本音をあえて代弁したい。
「俺はまだやれる。Jのフロントの方々。もっとサッカーを勉強してください。プロになってください」。
そして、井原正巳の現役復帰を本気で願ってやまない。
「矢面に立つ勇気」
ほんの十数年前、日本サッカー界が国際舞台を目指して歩き始めた長いトンネルには、灯りといえる道標がなかった。しかし井原正巳は、明らかな「灯り」が見えるまで一度も先頭を譲らずに暗闇を走り続け、若手も、もしかすると私たち記者も、その背中をじっと見つめていたように思う。「こっちの方向で大丈夫そうだ」と。
日本代表の最大の目標と夢でもあったW杯開催と、ベスト16への進出が果たされた2002年の終わり、井原が35歳での現役引退を表明した。大学2年から日本代表として出場した123試合は、歴代1位である。代表以外の国際試合、Jリーグ、そのほとんどの試合で彼はいつも「キャプテン」だった。
「キャプテンマークを巻くと、腕が、気持ちがズシリと重くなりました。辛いことも多かったのですが、あのプレッシャーと戦わなければ自分はここまで来られなかった」
どんな惨めな負け方でも、自分のプレーに納得が行かなくても、チームに何が起きても、彼は常に私たちの前に立ってチームを代表するコメントをした。98年フランスW杯直前、三浦、北澤ら「戦友」がメンバーを外れた日も、本当は泣きたいほど辛く心細く、しかもその動揺からかW杯出場が危ぶまれる大怪我をしていたのに、練習後、彼はすべてを胸に仕舞い、大勢の報道陣の前に立った。「代表は立ち止まるわけには行かない」と毅然と言った姿を思い出す。
フランスから3敗で帰国した日、無得点に終わったFW城が水を掛けられると、「的外れなFW批判は止めてくれ。自分はFWの働きを誇りに思う」と、珍しく声を荒げた。
井原がピッチで体現し続けたのは、「信頼」や「責任」という、ともすればあやふやな存在の、正義の形である。田舎の分校で体育の教員を、と願っていた選手が刻んだ123試合は、勇気と歴史そのものだった。
「やるだけのことはやったと信じたい。悔いはないです」寂しいが、そう言われた時、反論はしなかった。ひどかった首のヘルニアに苦しむことももうない。一つの時代を走り抜けたキャプテンに、感謝を。心からの敬意を。
(27日、東京中日スポーツ、コラム「セブンアイ」より)
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「本当は誰よりも熱かった」
もう2か月くらい前になりますが、レッズの練習場で久しぶりに話したとき、「今、楽しいですよ」などと話したのを思い出します。マリノスを離れてからは、ほとんど会う機会がなくなりましたが、会うと必ず「元気ですか?」と声をかけてくれる、そんな優しい人柄なのに、ピッチでは熱い人だなあ、といつも思っていました。
ドーハ、ジョホールバル、W杯フランス大会と、激動の日本代表を長年支えてきた井原さんですが、私自身一番思い出に残っているのは、最後の国際Aマッチとなった、99年の南米選手権のボリビア戦(7月5日、パラグアイのペドロ・ホアン・カバジェロ)です。途中で退場処分になってしまいましたが、ピッチを離れるとき、ずっと大声を出しながら、手をたたき、選手たちを鼓舞していた姿が目に焼き付いています。
同学年ということで寂しい気もしますが、お疲れさまでした、と言いたいですね。できれば、ぜひ指導者として、またJリーグに戻ってきてほしいと思います。
「いつでもキャプテンだった」
99年オフ、私は横浜から戦力外通告を受けた井原選手の移籍先を取材していました。とある情報を関係者から聞き、その真偽を確かめるべく、横浜市内の閑静な住宅街にある井原家を訪ねました。しかし、あいにく留守。雪がちらつく寒い夜、3時間ほど待った後、井原選手は帰って来ました。自宅の直撃取材を嫌がり「何しに来やがった」という選手が多い中、井原選手の第一声は「待っていると知っていれば早く帰ってきたのに。寒い中、お疲れさん」でした。質問に対しても、立場上、答えられる範囲で真摯な姿勢で対応してくれました。その後、最寄り駅まで愛車で送ってくれました。寒い夜、井原選手の心遣いは本当に温かかったものです。
キャプテン井原は、グラウンドの中だけではなく、グラウンドの外でもキャプテン井原でした。
「男の笑顔」
日本代表の主将といえば、今でも真っ先に井原の顔が浮かぶ。
2002年W杯でキャプテンマークを巻いた森岡、宮本をはじめ、中田、川口、松田、服部ら多くの選手が井原の後に日本代表の主将を務めてきたが、井原の主将としての存在感、独自のキャプテンシーをかすませてしまうほどの主将は現れていない。
少なくとも私の中ではそうだ。
印象に残っている場面がある。98年6月2日。岡田武史監督の下、日本代表が初出場したW杯フランス大会の開幕直前のことだ。日本代表25人は、スイスはレマン湖畔の避暑地ニヨンで合宿を張り、調整を行っていた。そして、この日、大会登録の22人が発表され、カズ、北沢、市川の3選手がメンバーから外れた。発表は昼食後、宿舎から車で5分ほどの練習場で、岡田監督自身がメンバーから外れる3人の名前を読み上げる形で行った。強い日差しの下の岡田監督のこわばった顔と上ずった声は今でも鮮明に思い出される。
発表から2時間後、その練習場で22選手とスタッフとしてチームに残った市川が「W杯日本代表」として初練習を行った。影響力の強いカズ、北沢がチームを去ったことで選手の間には微妙な空気が流れていた。明らかに動揺している選手もいた。なぜか怒ったような顔の選手もいた。カズと親しい中山は報道陣の前を通る時、見たこともないような沈痛な表情を浮かべていた。だから、私はこういう時に井原がどんな態度を取るのかがすごく気になった。
練習後、バスに乗り込む井原を待ち構えていると、井原は報道陣の人垣の中を、立ち止まっては答え、立ち止まっては答え、バスの乗降口に近づいてきた。
「誰かが外れるのは当然。みなわかってここに来ている。大丈夫ですよ」その時の井原の言葉は冷酷と思えるほどだった。しかも、表情には笑みさえ浮かんでいたことを記憶している。情に厚く、気配りのできる井原のことである。特に長年、日本代表でともに戦ってきたカズ、北沢のメンバー漏れに動揺がないといえば嘘になるだろう。
しかし、主将の自分が動揺すれば、それはチームに波及する。結束は揺らぎ、岡田監督への信頼も鈍る。12日後に控えた初戦アルゼンチン戦にいい影響があるはずがない。井原は主将として立派な態度を取った。
しかも、この日、井原にはアクシデントが起こっていた。練習中のミニゲームで右ひざのじん帯を痛めていた。練習も途中で取りやめており、アルゼンチン戦に間に合うかどうか微妙な状態だった。だが、井原はそれも胸にしまいこんで、笑みを作った。その、人なつこい笑顔はチームメートの目にも触れ、衛星回線を通じて日本のファンにも届いていた。世界への挑戦を前に萎えかけた士気に火をともし、沈みかけた空気に明るい光を刺し込ませた。結果的に日本代表は3連敗で1次リーグ敗退に終わったが、強豪アルゼンチン、大会3位になったクロアチアをあと1歩まで追い込んだことは、チームがいい状態で大会に突入した証だった。その意味で、あの時の井原の笑顔はとても価値ある笑顔だったと思う。
もしかすると、井原は、カズらの落選をプロとして事務的に受け入れていただけなのかもしれない。いずれにしても、あの日の井原の凛とした態度こそ、国を代表する主将そのものだったと思う。
オフト監督時代に日本代表の主将を務めた柱谷哲二氏(現国士大コーチ)は、闘争心あふれるプレーで引っ張るスタイルから「闘将」と呼ばれた。その柱谷氏に比べ、井原は闘志が表に出ないタイプのため、主将就任当初はそのキャプテンシーに疑問の声もあった。しかし、そうした批判にも、人柄のいい井原は反論することもなく「(柱谷)テツさんとはタイプが違うから。僕は僕のスタイルでやります」と淡々と話していた。そして、自分のスタイルで日本代表の主将像を作り上げてしまった。
井原は様々な金字塔を打ちたてた。国際Aマッチ123試合出場の日本代表歴代1位の記録はしばらく破られないだろう。W杯初出場時の主将という肩書きは永遠に変わらない。それから、もう1つ。95年6月3日、イングランド戦で決めたヘディングによる得点は、ウエンブレースタジアムでの日本人第1号ゴールだ。ウエンブレーは既に改修工事に入っており、66年W杯の舞台である聖地ウエンブレーに刻んだ唯一のゴールになる。私自身もその歴史的なゴールを自分の目で見たことを誇りに思っている。
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