※無断転載を一切禁じます スペシャルコラムのさらにスペシャルとして、私がスポーツ新聞社時代から体協や五輪種目で大変お世話になってきた共同通信の船原氏が書いてくださった記事を掲載します。
★Special Column★ 元パ・リーグ広報部長の伊東一雄氏が亡くなった。「パンチョ」のニックネームはあまりにも有名で、野球担当記者時代から大先輩を気軽にそう呼んでいた。かつて千葉県市川市のお宅近くに住んでいたこともあり、ご縁があった。「歩くエピソード集」パンチョさんの一面を紹介して追悼したい。 西武担当だった昭和50年代後半、深夜タクシーでよく一緒に帰宅した。所沢から市川までの1時間半、これがなんとも至福のときだった。あのパンチョの大リーグ話が毎晩、生で聞けるのだから。次から次と、張りのあるべらんめえ調でメジャーの話題が、それも最新の情報が聞ける。該博な知識はあの大きめの頭にすべて刻み込んであり、メモが一切不要なことを知ったのが最初の驚きだった。 信じられないほどの記憶力は少年時代からで、あだ名は「電話帳」。細部まで生き生きと再現してみせる話芸は、タイプは違っても映画界の故淀川長治さんを思い起こさせた。生涯独身を通し、最後まで少年のように好きなことに没頭した人生も似ている。 あるとき、帰宅途上の新青梅街道に米国式「ドライブスルー」のハンバーガーショップができた。筆者もそうだったが、タクシーの運転手さんも当然その存在を知らず、車を駐車場へ入れてしまった。「しょうがねえなあ」と苦笑いで買いに出たパンチョが数分後、バーガーの袋を持つ手をわなわな震わせながら戻ってきた。 売場で待っていると、後続車の若者から「あのオヤジ、ドライブスルーを知らねえんだ」と聞こえよがしに言われた。アメリカが大好きで、ハンバーガーが大好きで、全米を走り回ってアメリカ人以上にアメリカのことを知っているパンチョにしてみれば、これほどの屈辱はなかったろう。「あんな小僧っ子が生まれる前からドライブスルーは知ってらあ」。いまいましげな口ぶりは今も忘れられない。 すごい読書家で旅行好き。オフにミラノでオペラ観劇をしてきたかと思うと、サハラ砂漠で夕日を眺める。大リーグ野球だけでなく、常に身銭を切って本物を体験するのが身上だった。 その本物体験に圧倒されたのが、1964年東京五輪の話だった。あの年のプロ野球は日程を早め、五輪前に全シーズンを終了していた。スポーツ全般に詳しいパンチョは競技を選りすぐり、陸上は「ブルメル対トーマス」の走り高跳び、ホッケーなら「インド対パキスタンの決勝」と20競技以上の名場面を連日観戦したという。 芝・増上寺での葬儀翌日、パンチョが毎年楽しみにしていた大リーグのオールスター戦がテレビ放映された。かつては「大リーグの語り部」を通してしか伝わらなかった神話の世界に、イチロー、佐々木が堂々と登場していた。日米球界の橋渡しをした偉大な野球少年は、きっと天国で心ゆくまで球宴を楽しんだことだろう。 <追記>: ・パンチョが宝塚歌劇の古くからのファンだったことも有名だ。パ・リーグ入りしたのは、当時の中沢不二夫会長に大リーグの知識を買われたため。ご本人が「会長のかばん持ちだった」というように、どこへ行くにも一緒だったという。大阪遠征の際の宿舎は決まって宝塚ホテル。阪急グループの創業者、小林一三は宝塚歌劇の生みの親でもある。自然に歌劇通いが始まり、多くのスターたちとも長いおつき合いになったそうだ。筆者も六本木で何組かは忘れたが、準主役級の人と食事をしたことがある。彼女たちにすればこんなに楽しくて安心な「タニマチ」はいないだろうと思った。 ・ホテルについてパンチョは一家言を持っていた。中沢さんの教えだという。「ケチって安いホテルの泊まるのはやめなさい。少し背伸びしても、きちんとしたホテルに泊まれば、長い間には人間のランクが違ってくるんだ」。単に宿泊料が高い、高級ホテルということではない。品格のある宝塚ホテルはその代表格だったようだ。 ・ネクタイをするのはドラフト会議の時くらいしか記憶がない。いつもラフな、とはいってもあのおなかを収容するにはコスチュームが限られる。好きなチームのスタジャンを羽織ってフラリと現れるのが常だった。でも、ブランドものも結構好きで、ミーハー的な所もあったのが可愛い。夕食でわが家に招いた際(魚は食べないのでステーキにした、酒もほとんど飲まない)、妻にブランドものの財布、筆者にはネクタイのプレゼントを持参してくれた。パンチョ好みなので相当に派手な水色。ちょっと締めにくい。それでも、夏向きの小振りなタイプだから、パンチョを偲んで明日は締めてみようと思う。
|