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しかし、この日の大分は気温も34度近くまで上がり、さらに夕刻の海からの風で湿度が急上昇、試合開始時でも70%近いほどの湿度という最悪ともいえるコンディションの中での戦いを強いられた。リーグ戦での疲労も重なったためか、序盤から体が重く、加えて、左サイドの司令塔という新しいポジションに挑戦している小野伸二(浦和)のパスが前線に通らず攻撃ではチグハグな組み立てとなった。 対するユーゴスラビアも、ストイコビッチ(名古屋)の代表引退試合という思い入れと、練習不足のために動きが悪く、ミスの多い、大味なゲームとなった。 後半に入ると日本はパスのタイミングが合わなかった小野を服部年宏(磐田)に代えて守備を固める。66分には鈴木隆行(鹿島)が相手GKと一対一となりシュートを放つものの右ゴールポストにはじかれるなど、何度か決定的なチャンスは作った。また、安定した守りでユーゴスラビアに押し込まれることはなく、5人の交代枠をすべて使い、フィジカル面での優位を保ち、流れをキープしたまま1−0でユーゴスラビアを下した。日本はこの大会2年連続6度目の優勝となる。 なお、今大会のためにパラグアイから帰国した廣山望(セロ・ポルテーニョ)、1年半ぶりに招集された秋田豊(鹿島)らの出場機会はなかった。 ◆試合後のコメント
浦和に戻って移籍の詰めをする小野伸二「今回はベストチームではなかったという声もあったけれど、緊張感のある中でプレーできたことが非常にいい経験となった。自信を持ってやれるようになったと思う。(オランダへの移籍については)長い目で見てレベルアップができる環境でやりたいと思ったし、新しく環境が変わってリフレッシュしてどうなるかを自分でもやってみたいと思っていた。とはいっても、2002年もすぐにあるし(長いことばかりでなく)自分を高めたい」 運動量では踏ん張ってチームを機能させた森島寛晃(C大阪)「DFラインが踏ん張ってくれたことがとても大きいと思う。今回の2ゲームで、ああいうトップ下の前めに貼って、しっかりとプレーすることができるという少しの自信にはなった。また7日からJですから(現在最下位)、気持ちを引き締めて行かなくてはならない」
後半から投入された服部年宏「守備的に1点を守るというのではなくて、普通に、出られるチャンスは出てもいいということだったので自由な裁量でプレーはした。ただあれだけのチャンスがあってそれをものにできないのはやっぱり詰めの甘さ。もう少し意識を高く持ってやらないと、国際試合は甘くない」 出場でもっとも歓声を集めた中山雅史(磐田)「チームに帰ったら気持ちを切り替えなくてはならないので、今日までのことはこれで切り替えたい。今日のゲームに関していえば、かなり湿度が高く、コンディションは厳しかった。最後のところ、(ロスタイムでのチャンスは)あれは決めてもっとしっかりとって、詰めをしっかりしなくてはいけない」 出場チャンスのなかった廣山望「あれだけのお客さんの前でプレーできなかったのは、本当に残念だった。なぜ出られなかったか、何が足りないのか、自分でわかれば知りたいのですが。今回は戦術、対人練習にはまったく練習にも加わることができなくて、サッカーでは何か進歩することができずに終わってしまった。でもそれ以前のところで、自分を評価してもらい、ここに加われたことは本当に勉強になった。あと1年ある、自分をもう一度見つめ直して行きたい。合宿の雰囲気はすごくよかった。みんなが気を使って、自分にパラグアイのことを聞いてくれた」
「立ちくらみサッカーでも」 各地で最高気温が軒並み30度を越えるような日、日本代表は、思い切り冷房の効いた室内から一歩外に出たときの、うだるような、あのムッとする「立ちくらみ」のような感覚でサッカーをせざるを得なかったのではないか。前回の札幌でのゲームが気温も23度、湿度も60%程度と空調でコントロールされたのに対して、この日は70%を越え、インジュリータイムの度に全員がピッチの外で水を飲んでいた。 「前半はかなりきつかった。後半になってやっと要領を得て、少し涼しくできるように感じたけれど」と稲本は話したが、後半30分以降、選手の脚は止まってしまい、ほとんど機能していなかった。ロスタイムで3回もの決定的なチャンスを外したことも、服部が「あれではまだ詰めが甘い。課題が残る」と反省する。
湿度によるコンディション不良や疲労は当然で、1−0の結果だけでこの日は十分である。しかし、今後はそうはいかない。
「胸が一杯で」 代表を引退するストイコビッチは会見で言葉を選びながら話した。 グランパスで7年、世界一級品の技を見せ続けた妖精の代表引退試合として、文字通りの花束もなかったし、ある意味の「華やかさ」も欠いていた。会見を終えると、息子と手をつないでミックスゾーンを引き上げたが、どの質問にも答えることはなく、うつむき黙ったまま、大きなつい立ての後ろに去って行っただけである。あれだけの「物悲しさ」が漂う引退試合は、逆に胸を打たれるものがあった。 92年、その技の絶頂期とも言える時期に、母国ユーゴスラビアの内戦によって、国際舞台からスポイルされることになった。その年の欧州選手権、94年のW杯、自分が母国・セルビアを愛すれば愛するほど、その政策は彼と愛するサッカーを裏切ったことになる。93年以降は、ボスニア・ヘルツェゴビナの紛争、アルバニア系住民への弾圧……、と出場停止期間は絶望的な長さとなり、足も心も腐りかけた。「胸が一杯」と言った短い言葉は、そんな時期にひとつの救いとなった日本のサッカーへの愛情、そして沈黙してきた政治とスポーツへの恨みなのか、それとも心からの理解なのか、こうした複雑な心境すべてを、この晩、ストイコビッチは心の奥に封印したのではないかと思う。 会見で取り上げられることはまったくなかったが、その彼の祖国では、当時のユーゴでの戦争犯罪責任を問われたミロシェビッチ前大統領がハーグ(オランダ)の国際法廷で、国家元首としては初めて法廷にかけられるという、かつてない裁判が始まった。国際的には、これがこの日のトップニュースである。
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