4月13日
〜イタリア現地レポート〜


コッパイタリア決勝戦初戦
ラツィオ×インテル
(ローマ・オリンピコスタジアム)

 コッパイタリア決勝戦の初戦は、ラツィオがインテルを2−1と逆転で倒して次戦を有利に戦える状況とした。
 前半8分に先制点を奪われたものの、40分ネドベドのゴールで同点として折り返した。後半7分にはシネオネのゴールで勝ち越し、インテルを引き離した。
 この試合で、右ひざの手術以来、待望の復帰を果たしたインテルのロナウド(ブラジル)が、後半14分にラツィオのファンも含めて4万人近くの観客からの大拍手を受けて登場した。

悲痛な表情で右膝を押さえ、電動カートで運び出されるロナウド
Giuseppe Bellini/ TOMIKOSHI PHOTOGRAPHY
しかし、そのわずか6分後、ゴール前へドリブルで突進して行った際にまたも右足をひねって転倒。詳細は13日の検査結果を待って判明するものの、救急車で運ばれチームの車でそのままミランへ直行し、手術を行った主治医のいるパリへ向かうといわれている。

インテル リッピ監督の話「(ロナウドのケガについて)こんなことが起きるなどとは……(会見で監督はしばらく沈黙して顔を覆いながら)。ケガの状態については、十分復帰できると報告されていたし信じていた。これはインテルだけでも、イタリアだけでも、そしてブラジルだけでもない、全世界のサッカーファンにとって耐え難い悲劇の晩となってしまった。ケガの詳細はまだ判明しておらず検査を待つことになるが、おそらく靭帯に大きなダメージを負ったであろうとドクターは話している」

ラツィオ エリクソン監督の話「(試合の話に先立って)ロナウドのケガに心が痛む。うちの選手も、ファンもみな同じ気持ちだろう。彼がきょう復帰することは我々にとって脅威であるとともに、あのスピードとシュートを再び目にできることは楽しみでもあった。試合は、前半はあまりにもひどく、何点取られてもおかしくない状況だった。後半になって、うちのペースがよく保たれる状態になり、チャンスが生まれた」

「神様、夢でありますように」

 今回の取材をアレンジしてくれた雑誌の厚意でカップ戦(コッパイタリア決勝戦)をも取材できる幸運に恵まれた。
 ロナウドの待望の復帰に、試合前からスタジオ・オリンピコの記者室では盛んに「何分で出るだろうか」「得点を決めるだろうか」「いや案外無理はさせないんじゃないか」などといった会話が飛び交っていた。どの記者たちの間にも、勝敗だけではなく、長い間見ることのできなかったロナウドのプレー自体への期待感と喜びが満ちているかのようだった。
 ブラジルからは取材クルーが駆けつけていた。日本にも何度も取材に来たことのあるという彼らと話をした。
「ベベットはどう?」そんな話から始まって、彼らはきょうの復帰のためにブラジルから来たこと、彼らの特許でもある携帯での衛星中継で家族と話させることなどを教えてもらった。
 後半14分、ロナウドが交代でピッチに入ったとき、記者席の前にいた彼らが親指を立ててうれしそうに合図した。
 動きはまだ重そうではあったが、「スピードある動きとシュートが一体になったようなプレー」(リッピ監督)、今にも繰り広げられそうな得意のドリブルからの切り込みに、誰もが胸を高鳴らせていたその時だった。
 ドリブルをしながらラツィオのゴールに突進していった瞬間、右ひざの角度が大きく崩れ、そのまま倒れこんでしまう。ロナウドが右ひざを抱え、顔を大きくしかめて芝に倒れこんだ時、彼の突進を防ごうと構えをとっていたラツィオのシメオネが、真っ先に駆けより、その勢いのままインテルベンチに「早くドクターを」と絶叫した。ここに両チームの選手全員が駆け寄り、大きな輪の中で救急治療の車に彼を乗せるのを手伝うなど悲壮な様子が伺えた。
 リッピ監督は頭を抱えたまま、呆然と立ち尽くし動くこともできない。
 ラツィオもインテル側も、スタジアム中が静まりかえってしまった。インテルのファンは顔を覆い、観客の中にはその瞬間を目撃した直後に、発作を起こした者までいたという。
 ロナウドの妻と生まれたばかりの子供も観戦に訪れていたそうだが医務室には入ることができず、中にいる関係者の携帯電話に連絡したという。

 不思議なもので、それまで緊張感に満ち緊迫した試合が一瞬にして変化してしまった。リッピ監督ほどの指導者が、しばらく(3人交代を終えていた)事実を飲み込めずに、指示を出せずにいたことを見ても衝撃の大きさが分かる。
 96年の2月にオランダで右ひざの手術を受け8週間を棒に振り、98年の6月のW杯では左ひざの具合が悪くなり、98年の9月には、両膝の腱の炎症で全治4週間戦線離脱、この年の11月8日、ダービーで得点したがここで右ひざを痛めて退場。「恐怖感がぬぐえない」と本人がひざへの不安と恐怖を口にしたのもこの頃だった。11月25日のマドリード戦で復帰したが、このときもまた全治3週間の靭帯損傷をする。
 99月1月、遠征あとにまた靭帯の根本的な緩みが判明。その後もフル出場は1試合のみ、右モモの痙攣、靭帯の痛みなどリハビリを続けたが、99年11月30日、パリでついに右ひざを手術し、人工靭帯などの補強手術を行った。
 フランス人の医師の手術そのものを疑問視する声があがっているが、本人はその手術を決断し、そこからリハビリをこなし、元モデルのミレイネさんと結婚、子供が生まれ、ようやく復帰にこぎつけることに集中したに違いない。選手としての祝福に包まれるはずの日、ロナウドは再び、担架の冷たいベッドに寝かされスタジアムを去った。

 何か不吉なことが起きそうになると、イタリアでは人差し指と中指を交差させて「おまじない」のような仕草をする。「夢でありますように」「悪い夢なら覚めて」そんな意味合いで咄嗟にするのだが、ロナウドが担架で運ばれていく時、イタリアの選手たちがみな指を交差させて頭の上に乗せる仕草を無意識のうちにしていたのが見えた。ロナウドは担架で運ばれ、駆けつけたインテルのモラッティ会長の腕の中で絶叫しながら、両親の名前を呼びながら号泣したという。
 携帯電話で聞くはずの、息子の歓声を待っていた両親が聞いたのは、テレビを通して悲痛な叫びを上げる息子の涙声だった。
 試合後、90分前には期待に満ち溢れた会話交わしていたブラジルのクルーに会った。何か言おうと思ったが、彼らがあまりに落胆していたので、かける言葉が見つからなかった。(※一夜明けた13日、ロナウドはパリに入り、ジェラル・サイアン医師の診断を受けることになった。)


ASローマ練習
(トリゴリア)
13日午後=日本時間13日深夜

 11日と12日の午前まで筋肉疲労のために練習を休んでいた中田英寿は12日の午後から練習に復帰し、この日も午後からの練習に参加した。
 練習前のアップでは、スパイクを履かずにアップシューズで走っていたが、ボール回しからはスパイクに履き替えた。金曜日、土曜日の回復ぶりを慎重に見ているようだ。
 また、ラツィオ戦で足首を痛めて離脱していたモンテッラが復帰。左モモ痛だったトッティもトップに合流した。

「ローマの新時代」

 ローマの一般紙には、ASローマの選手たちの顔がよく分からない、足だけ、あるいは肩だけというようなユニークな写真とともに「情熱こそ我らの商品」とのコピーで連日全面広告が打たれている。これは、今月末にも、セリエではラツィオに次いで株式が公開されるためで、今この株式公開をめぐってさまざまなビジネスチャンスとともに大きな変革が、1927年創立のこのクラブに訪れている。
 13日には、センシ会長が突如クラブを訪問。16日に行われる地方選のために与党の議員を招待し、「地方選では党派に関係なく応援はするが、ラツィオファンの政治家はこのクラブには招待しない」と、これはジョークではなく真顔で話し、さらに今盛んに話題に上がっているASローマのテレビにも言及した。
 この計画によれば、ASローマとストリーム(ペイテレビの専門チャンネル)とRAIトレーディング(国営放送の子会社)が共同出資をして設立する「カナーレ・ローマ」は、1日10時間、RAIの電波が受信可能な世界5大陸すべてで見ることができるチャンネルで、ローマの練習風景や記者会見など、これまで見ることのできなかった日常のクラブの姿を放送するものだ。
 こうしたペイ方式がもし普及すれば、「現在はまだすぐにはできないが、将来的にはもちろん日本でも中田の練習や会見の様子をリアルタイムで見ることができることになる」と会長は話しており、株式を公開する上での経済的な波及効果と、何よりチームのイメージアップをはかるためのいわば切り札となる。
 例えば先に公開に踏み切っているラツィオ株は、12日、13日で11,251リラ(約700円程度)から11,571リラと、わずかだが上昇。コッパイタリアの結果が株価にも現れている。
 経営陣も改選し、その中にはFIATの社長の息子で経済界では若きエースとも言われるロミーティもいる。3日前に彼が役員になって最初にしたのは「トッティは必ずしも絶対的な選手ではないから、いい条件なら売っても構わない」と発言したことだった。
 13日もセンシ会長を取り巻いた記者たちから盛んにこの発言に対する質問が浴びせられ、「彼はローマの息子。売るはずがない」と躍起になってこれを打ち消すなど、株式公開のために入れた違う血の存在によって経営も大きな変改を遂げるかもしれない。

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