修士・博士論文に求められるもの

<新 訂 増 補 版>




  横浜国立大学 三井研究室


 
 
 
 近年は大学院のあり方も多様化し、欧米流の「ビジネススクール」方式でシステマティックな教育カリキュラム、インテンシヴなケースメソッド応用討論やプレゼンテーション、徹底したレポート提出などを特徴とするところも増えてきた。また、研究論文提出を義務づけない、専門職コースなども登場している。しかし、多くの大学におけるように、修士論文や博士論文を前提に成立しているところにあっては、やはりそれにふさわしいものを研究し、執筆することは重要であるし、これに在学期間の多くの時間と労力が向けられることが期待されている。いやしくも大学院での「論文」を称する以上、今どきの大学「学部卒論」レベルでは困るのであり、「学問」(academic study/work)と呼べるものでないと、どうにもならない。

 「修士論文」(M.A. thesis)は多くの国の大学院にはないが、「学術論文」である以上、研究の水準を表す「博士論文」に匹敵ないしは準ずるレベルは求められる。
 

 

1.新規性・斬新性・創造性

 
 世の中にWhat's New として「貢献」するものでなくては、「学術論文」として公にする意味は乏しい。その点で、学術論文は単なる「読み物」や「解説」、商業雑誌や新聞の記事などとは決定的に異なる。もちろん後者にあっても、「新しさ」が重要な意味を持つ場合も少なくないわけであるが、それは前提とはされない。
 
 関心の出発点は自由であっても、「新しいもの」がないのはおこがましくも「研究」とは自称はできない。「新しさ」は問題意識、視点、方法的枠組み、素材(対象物、論理、データ、資料、文献、人物証言などまで含めて)、研究検証方法、論旨(論理)、結論、研究の意義(インプリケーション)、いずれにも望まれるし、またそのうちにも特に大きな「貢献」があってはじめて、研究と呼べるものになる。
 
 「学問」は創造的であり、限りない「深み」があってこそ、世の中での存在価値がある。学問は「アリバイ」づくりではないし、自分のおさらいやノート、防備録ではない。創造的でない「研究」などというのは、今日の世界のどこででも認められないものであり、極端に申せば、日本のごく一部の「学界」と「大学」でのみ生息をしている絶滅寸前の「変種」である。のみならず、それでは自己満足にしかならず、誰に対しても責任を負うことはできない。
 
 
 自分が学問の第一線をになっているのだという誇りと気概を持つところから、学問へのとりくみの第一歩が開かれるのである。そしてどのような立場の人も敬意を払うだけの、多くの労力と真摯な思考をそこにかけた、研究の厚みと奥行き、創造的な蓄積をめざし、努力を惜しまないことが大切である。
 

 

2.方法的明確さ

 
 「学問」の方法は単一ではなく、社会的研究でも、論理性研究(数学的手法を含む)、解釈論、統計・計量分析、数量的実証、比較制度論、システム論、歴史的資料研究、事例研究(フィールドワーク)など、さまざまなアプローチが考えられる。そうした方法的リベラルさも大事ではある。しかしそれにあぐらをかいて、いい加減な方法で批判に耐えないものは学問になれない。それはまた、単なる「読み物」や「記事」などとの決定的な違いにもなる。その意味では、「サーベイ論文」もある程度ありだが(特に「修士論文」の現状を考えると)、うえの「新規性」に到底適わないレベルであれば、それだけでは「研究論文」にはならない。
 
 「方法」には、哲学、学問的な見地や立場、科学観や世界観、価値観といった意味での「方法」と、具体的なメソッド、研究の手法や分析方法、調査方法、論述方法といった意味での「方法」の二つが考えられる。いずれに関しても、学問は本来的にリベラルな存在であり、特定の方法以外の存在を拒絶するといったことであってはならないし、大学はそうした意味で「学問の自由」(academic freedom)のうえに成り立っている。しかし、どのような立場であれ、学問的な検討や批判に耐えない、論理性を示せない「主観」「独断」がすなわち「科学観」にとして受け入れられるものではないし、研究のメソッドにおいても、それだけの方法的明確さと首尾一貫性、客観性は要求される。また、その方法は論文を読むものに理解可能な形で明示されなくてはならないし、関連する情報、たとえば数値の根拠・出所といったものは明らかにされなくてはならない。
 
 そして、望ましくは学問の発展に寄与するという意味での方法面での斬新さやラジカルさも期待される。詳しくは以下で再び取り上げる。
 

 

3.リビューを前提に

 
 従来の研究や議論のリビューを丹念に行い、そのフォローと整理、そこでの論点や方法を明確にしたうえで、初めて自分の問題意識と視点、あるいは研究方法などを確認できるものである。それをぬきにした「無手勝流」では、やはり学問的研究にはならない。
 
 リビューの対象は完璧とまではなかなか行かないが、今日ではリビューのための手引き、リビュー刊行物、データベースなど数々整っているのであり、最大限の努力が求められる。国内外に目を配るのも当然である(元来博士論文提出資格に、「外国語2カ国語以上をマスターしていること」となっていた。それのみに固執することはないが、国際的に通用することも必要である)。
 
 いくら便利でも、「孫引き」は避けなくてはいけない。リビュー刊行物や他者の著作、インターネットなどを通じて手がかりを得たら、あとは極力原典に当たり、自分の視点で理解確認をしなくてはならない。ひとを頼ると間違えることになるし、自分の新しい視点は生まれない。まして、「学ぶ」ことはできない。原典にこそ壮大な研究の可能性や見落とされていた指摘の数々あることは決して珍しくはないのである。
 
 外国文献などの場合、権威ある「翻訳」でさえにもしばしば間違いがあるし、重要なキータームや論理の理解に疑問の生じることも少なくない。また翻訳だけに頼っていては、言葉の重み、普遍的な用法への理解は見失われる。原典にさかのぼる努力は不可欠である。
 
 
 多くの先行研究や関連の見解などをきちんと読解消化し、それらの到達点や論点を明らかにし、自らの研究とその結論の意義を示すことが、学問研究の基本的な姿勢である。
 

 

4.論理性ある構成と記述

 
 論文である以上は、「論」としての筋道と説得力を欠いてはならない。今さら、「論文の書き方」をおさらいするといったことは、大学院レベルでは恥ずかしいことではあるが、「聞くは一時の恥」で、知らないままに末代までの恥をさらすよりはましである。
 
  三井ゼミ「論文の書き方」を参照。
 
 
 繰り返しになるが、「論」とは、なにを論題とし、どのようにそれを検討し、どういった結論を導き出そうとするものか、それをまず明示しないことには始まらない。読者が最後まで、読み終わるまでなにが出てくるのかハラハラドキドキなどというのは、推理小説のテクニックであって、学術論文にあってはならないことである。
 
 その点、いわゆる「理工系」の論文を見れば一目瞭然なことに、こうした「研究対象」「方法」「結論」といったことは冒頭に明記されていないと、誰も読んでくれないものである。自然科学にあっては、同一の対象への同一条件下での「追試」可能性とその実際の成果が担保されていないと、新しい学問研究の成果としては認められないことになっている。それが一目でわかることが大事なのであり、通常、「要旨」などのかたちでそれは冒頭から明記されているものである。
 
 「社会科学」「人文科学」などの分野では、「実験」を伴うも研究は多くはないので、「追試」可能性を前提にするわけにもいかないが、それだけに、論旨と論理、そして論証の根拠が明確であることはいっそう厳しく要求されるものと言えよう。
 
 
 「論証」の方法は、「近代理論」においては、前提理論、仮説と検証、合理的推論と形式論理の整合性が優先され、近年そうした立場からの「研究論文」がわが国においても圧倒的になってきている。そこでは、数理的論理と解析方法、数量分析手法が多用され、コンピュータなどの利用によって、そうした分析的「結果」が氾濫する現状を招いている。そのような「方法」の持つ説得力はもちろん何ら否定されるべきものではないが、そこには落とし穴もあることを見落とすべきではない。近年の「近代理論」の横行にひたすら迎合するばかりが、「科学」的な思考と論述であるのか、「方法論のcritique」として、いまいちど振り返るべきところである 注1
 
 もちろん、そうだからと言って、あらゆるものを批判的検討の対象とすることなく、過去の「権威」にすがったり、目の前の「現実」から逃避し、訓詁の学に自己満足したりすることが、「科学」の進歩に貢献するとは誰も納得はしてくれない。あるいはまた、少なくとも多くの読者を納得させることができない、客観的な材料と検証方法、明確な結論を欠いた「思い入れ」ばかりでは、やはり学術論文を構成するものとは誰も認めない。
 そのためには、論文構成の基本的なルールを守り、そのなかで自らのよるべき立場と方法を明示し、筋道の立った構成と記述をしていくことが必要である。他方ではまた、「なんでも書き込む」という姿勢は感心しない。自分の研究ノートではない、完成した論文として評価を求めるものであれば、論旨に即し、論証に必要なものを書き込む、添える、ということにとどめ、読みやすさにも配慮はすべきである。そうしたバランス感覚が、「書く」ことの経験の積み重ねによって培われるはずである。
 

 

5.記述のルールは厳守

 
 当たり前すぎることなので、今さら詳しく記すものでもないが、最低限、このルールに則した点検として、読み直す、推敲するという手続がいかに重要なものか、認識する必要がある。「読み手」の立場になれば、それは自ずとわかるものであり、またケアレスミスなども容易に見つかる。
 
 ルール自体については、いまいちどここを参照。
 
 
 その当たり前すぎることの「上塗り」であるが、「無断盗用」などが厳禁なのは当然である。出所・根拠不明なデータや事例、記述などが並んでいるものなど、犯罪を構成しかねないだけではなく、学問としての価値はゼロになってしまう。これはインターネット時代になって、非常に大きな問題になりつつある。
 
 こうした「出所・根拠の明示」だけではなく、近年痛感される問題は、「テキストクリティーク」の姿勢の重要さである。リビューし、自らが参照すべき先行研究や従来の諸議論、あるいはさまざまな資料、データ等について、「あらゆるものを等価にしてしまう」インターネット時代のおかげで、無批判な「なんでもあり」的取り上げ方が目につくのである。もちろん今さら「過去の学問の権威」や、「世界の一流研究誌・学会誌」だけにすがる、そういった安直な権威主義が、ラジカルな学問研究の姿勢にふさわしいとも言えないが、その裏返しで、目についたものはすべてあり、というわけにもいかない。その場合大事なことは、自らが取り上げる、論証の根拠とする、そうした見解や意見、資料やデータなどの依るところ自体を十分に問う姿勢である。それは既にある議論の蒸し返しや孫引きではないのか、きわめて怪しい出所からの「うわさ話」のたぐいではないのか、あまりに偏った、あるいはごくわずかの事例から集められた数字でしかないのではないか、といった批判的な姿勢である。
 
 学問の議論というものは、そこまで踏み込むからこそ、つねに新しく、また意義あるものとなるのである。出所根拠の偏りへの留意なども含め、このように「もとを正す」姿勢が望まれる。



横浜国立大学大学院環境情報学府技術マネジメントコースでの「ワークショップ」用資料(三井作成)


付注

 なによりも、流布されている「前提理論」とその背後にある哲学、科学観や価値観を単に無批判に受け入れるというのは、真にラジカルな姿勢ではない。つねに根元的な問いかけをなし、「すべてを疑う」姿勢をぬきにしては、現実社会やそこに生きる人間、組織などへのみかたは決して進歩はしない。それはまた、導かれた「結論」に対しても同じことである。下手をすれば、「現実」から目をそらすため、甚だしくは「現実」自体を否定するために、「論理」と「論証」が用いられることになりかねない。「それでほんとうに説明がつくのか?」、「このこたえは実践適用可能なものなのか?」こうした、人間存在や現実社会に向かい合う際の謙虚さを欠いた「科学」は、一部のものたちの傲慢さの証明以上のものにはならない恐れもある。

 
 「社会主義」の崩壊以降、「科学の奉仕するもの」、あるいはその「階級性」を問う、はたまた「存在全体と社会システムの総体」と取り組む、「弁証法の論理」を応用するなどの見地は影を潜め、単純化された「形式合理性論」が世界を覆い、それにいささかでもそぐわない、あるいは疑いを差し挟むような議論は、「科学ではない」、「世界の学界では相手にされない」などとして嘲笑する向きがある。そうした単純にして独善的な「世界観」と「科学観」が一方では、そのパラレルワールドとしての「宗教的原理主義」「神秘主義」とニヒリズムを育て、果てしない絶望的な対立を呼んでいるが、他方では、そうした「形式合理性論」とそれにもとづく流行のコンセプトやフレームワークをこっそり「輸入」し、接ぎ木をして、体裁を取り繕うかのような「論」も増えてきている。しかし、「学問」に必要なものは、学の総合性・体系性・論理性であり、同時にまた、それを絶えず問い直し続ける根元性なのであって、一部の権威への安住や、安直な受け売り、ごったまぜなどとは違うはずである。
 
 
 いま、少なくとも、数量的分析への還元と表現のみを社会研究の方法とするのではなく、制度・しくみ、諸関係、歴史的事実、書かれざる言語表現などにも方法的根拠と論証を求め、論理を組み立てようとする「社会科学」などの学問研究とその成果を復権させ、これらにもとづきながら、学の総合性・全体性(holistic view)の回復を意図する、新しい学問体系への模索があってよい。さもなければ、「科学」は果てしない自己満足と自己増殖のシステムに陥り、あるいは「強者の支配の合理化」の手段となる恐れもある(注)

 「社会科学」としての全体性・構造性と変化・発展・進化の論理、またその原点としての人間人格と労働、協働と集団・組織の位置づけ、さらには力と不均衡、対立と抗争、矛盾と発展の論理を欠いた、個別還元論や形式合理性論、永続的均衡論・予定調和論のような「方法」の横行は、「科学」の進歩であると誰が言えようか。

 

(注) ケンブリッジ大学で統計学を担当しながら、「批判的実在論」(critical realism)を掲げ、「数学的形式主義」の氾濫に異議を唱え、「数理モデル」や「計量経済学的手法」の限界性、仮定の妥当性への問いかけのなさを指摘する、Tony Lawsonはこう記している。 (主流派経済学の「形式的」モデルに立つ著作では)「計量経済学的関係の仮定を、内生要因と外生要因へ区分し、後者のみを選択の対象とみなすことである。とはいうものの、その実践は特権をもった政策立案を行うエリートたちにのみ可能であるにすぎない。」…… 「その包括的な結果は、自らの歴史を形作ることへのいかなる貢献も、人間に対して否定するような思想である。」(Lawson, T. Economics and Reality, 1997 ・(邦訳『経済学と実在』日本評論社、2003年、pp.9-10))

 

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