idle talk28

三井の、なんのたしにもならないお話 その二十八

(2011.5オリジナル作成/2024.3サーバー移行)



 
 
もしドラッカーが高校野球部の女子マネージャに会ったら

(追補.「洗濯の自由」をどう守るか)



 
 
 なんか、そんな題名のコミック(じゃなくて「小説」か)が売れまくり、ついにはTVアニメでも天下の国営放送局が放映、大変な人気で、おかげでドラッカーの著作も今更のように大増刷で売れまくっている、さらに「柳の下のドジョウ」をねらった、まがい物のような本も続々出ているということで、この不況といまや絶滅の危機という出版業界にはめでたい限りです。このまえの「正義の話をしよう」ブームのあと、「何とかの話し」だとか「○○しよう」などというような題名の、しょうもない本が続々出ているのに続く、明るいニュースでしょう。


 私も、経済や経営の研究者の端くれとしては、ドラッカーはずいぶん読んでいますし、なかなかおもしろい、勉強になるところの多々ある大人物だと思います。もっとも、「それってあたりまえじゃない?」というところを実に説得力と迫力をもって説き、世界的な権威になるのも、やはり大先生の大変な能力と思われますし、私なんざ足元にも及びません。こんど、恥ずかしながら拙著もたまたま出しましたが、刷った部数はドラッカー大先生どころか「もしドラ」本の1000分の1にもならないんです。まあ、指折り数えるくらいの人数のひとしか、手にとって読んではくれないでしょう。

 だからひがむというわけでもありませんが、今さら「もしドラ」なんか読む気もまったくしないし、むしろ、そこで興味を持たれたひとはぜひ、ドラッカー大先生の原著(もちろん翻訳)を目にされ、やっぱし大先生の言っていることは含蓄が深いなあ、と実感をされますことを私はおすすめします。ドラッカー大先生は決して、「どうしたら儲けられるか」なんては言っていないんですよ。経営の王道は、今日の社会での存在意義は、等々真っ正面から論じているんです。


 「もしドラ」を読みもしない人間がこういったことを記すのもけしからんことというご批判は十分予想されますので、そんなことはここには書きません、書けません。それより私が驚いたのは、「高校野球部の女子マネージャー」がなぜ、「マネージャー」と呼ばれてきたのか、これに誰一人疑問を差し挟まないことです。もしドラッカー大先生がこの大ベストセラーのおつりで(きっと著作権料は払っていないんでしょうけど)、日本に招待され、実際に高校野球の現場に行ってみることになったら、きっと口をあんぐりどころか、絶句、ついには怒り出すかもしれませんね(数年前に天寿を全うして他界された大先生には、100%あり得ないことですが)。だって、中学や高校の野球部「マネージャー」って、汚れたユニフォームの洗濯、用具の整備、はては試合の時の飲食料調達準備など、要するに「雑用係」「世話係」じゃないですか。どこに「まねじめんと」があるんですか?


 この突拍子もないカルチャーギャップをいままで誰一人指摘しなかった、そして「もしドラ」ブームが席巻するいまにおいてさえ、そのへんどうなのとも言われない、ドラッカーを読んで目覚めた「女子マネ」が、汚れた衣類も用具も放り出し、「わが野球部はこうあるべきだと思います」と大演説をはじめたら、なにが起こることになるか、誰一人想像もしないのでしょうか。監督や部長やコーチらが、「そうだね、やっぱ考えなくちゃ」と耳を傾けるか、選手たちが、「マネージャー、分かります」、「こうやっていけばきっと結果はついてくるんですね」と感激するか、まあ99%あり得ないでしょう。「おい、余計なこと言ってないで、これ片付けておいてくれ」、でおしまいでしょう。




 私はこれはやはり女性差別であると思います。ユニフォームの洗濯やらが必要なら、女子部員だけじゃなくみんなでやればいいでしょう、それでは練習の時間が足りなくなると言うのなら、無理してでも「外注」するべきでしょう。なぜ、練習し、試合に出る選手は男子部員だけ、女子は「マネージャ」、などという絵に描いたような「役割分業」が飽きることなく続いているんですか?

 もちろんそれには「歴史的根拠」があります。長いこと、学生野球には女性は参加できませんでした。本当はそういった規定はないらしいし、このごろは女性で活躍する選手もわずかながら出てきました。男女では体力等で差があるというのなら、ほかの競技スポーツ同様に男子部門、女子部門それぞれをつくればよいでしょう。もちろん、いまの日本にも女子野球のチームやリーグや大会もあるに違いないのですが、特に高校野球関係では、日本を代表する最メジャーな場、春夏の甲子園大会を頂点とする野球連盟(大マスコミが主催)の中で女性チームが登場する機会も可能性もほとんどないままなのでしょう。

 だから、かなり長いこと野球部は「女子禁制」であったはずです。それはいかんだろうということ、そして中学や高校で野球「部活」にも関わっていきたい女子生徒がたくさん出てきたということで、「門戸を開いた」が、やって貰うことがない、だから「洗濯でも雑用でも記録つけでもなんでもやります、やらせて下さい」という彼女らの熱い思いに乗ることになった、これが全国に広まった(野球部のある高校で、男子校というのも近ごろ少ないですし)、それをどう呼ぶか、「雑用係」なんて名付けたらまずいし、一騒動おこる、そこで無難かつもっともらしい「マネージャ」という呼び方がいつしか広まり、すっかり定着してしまった、そういったところでしょう。

 高校野球などに関わっていけることになった「女子マネージャ」たちも、その呼び名に疑問を挟んだり、「自分ってマネジメントを実践してるんだっけ?」と思い直してみたりなどもあまりしないまま、「洗濯の自由」と自分の「貢献」になかば満足してきたのではないかと思います。


 勇ましいフェミニストのみなさん方は、このようなスポーツ界やマスコミ界などに横溢蔓延定着している陳腐にしてあからさまな男女差別・役割分業の再生産普及に疑問を呈したり、あえて告発挑戦したりはせず、だいたい「手近なところから」やっつけて、溜飲を下げてきた、だからにっぽんはちっとも変わらないんだなどと申したら、私の方が袋だたきに遭うと思いますので、申しません。そうした「なにも変わらない現実」に対し、ドラッカー大先生がすすんで疑問を呈し、そこから「女子マネってなんなんだ?」とか、「マネージャーにはマネジメントをやって貰おうよ」という機運が少しでも広がれば、これは悪いことではないと思います。「もしドラ」も結構なことでしょう。実際ドラッカー大先生は女性を積極的に生かせない社会や企業の限界を明確に指摘していますよ。まして、「マネージャ」=洗濯・雑用係なんている「意訳」が定着しているクニでは、マネジメントかくあるべしなんて、議論の可能性もないじゃないですか。



*このあからさまな性差別に関し、まじめに取り上げる人たちもいるようです。しかし「メジャーな」マスコミはむろん、ファシズム状況にあるインターネット上でも完全無視でしょう。この研究や議論をされている方々の著作は、「もしドラ」の1000分の1も売れないでしょう、やはり。

 こうした研究論文もありました。




 ご存じの方は当然と思われましょうが、baseballの「監督」は(field) managerと言うんです。「マネージャーの仕事は洗濯」なんて言ったら、名誉毀損で訴えられるか、即殴られるかでしょう。
 「野球道」の世界での「監督」はエイゴではなんと訳すのか、「スポーツジャーナリスト」や「野球評論家」や、「もしドラ」の作者のみなさん方、ぜひ考えて見て下さい。Fuhrerかimamかな?


 それから、懲りることなくPeter F. Drucker大先生を「ドラッガー」と記す方々が多々いるんですな。「スラッガー」からの連想でもないでしょうに。
 draggerでは牽引車、レッカー車です(アメバイクという意味もあるらしい)。druggerではヤク中毒者、俗称ジャンキーであります。

 ま、いまもsimulationを「シュミレーション」と書く、発音する人の多さからすれば、当然でしょう。「シミュレーション」なんてニホンゴ的には甚だ発音しづらいし、わが日の本には「シュミの世界」という大ジャンルがメジャーな存在ですから。



 なお、現在のインターネット上の世界のことですから、早速に「洗濯や雑用を仕事としている人間を馬鹿にしている」だとか、「マネージャーがえらいといった偏見だ」などの、相手をするもばかばかしい(2ちゃんなみの)雑言が押し寄せてくることを予想します。

 言わずものがですが、洗濯や雑用をする人間がマネージャーより下だ上だというような世の通念を私は取り上げているのではありません。どんな仕事も「えらい」のですし、私もよく洗濯はやるし、雑用も当然こなさないと生きていけません(そう言う割にきちんとやらないから、あらゆるところで身の回りに危機が迫っていますが)。それ専門でがんばっている人たちには感謝の限りです。

 ただ、企業や球団などの組織の中で、「マネージャー」と「洗濯担当」は同じではないだろう、それぞれの役割があるという当たり前のことを記しているわけです。その「役割」が性別に固定化している、誰も怪しまないとすれば、それが問題なのです。しかも、マネージャーだって平社員や選手だって、自分の身の回りのことくらいは本来自分でやればいいでしょう、別にそれを不可能にする条件がなければ。


 ま、見方を変えれば、「ニッポン的現場主義」の神髄発揮で、洗濯や雑用を担っている「女子マネ」がその仕事のすすめ方を考え、効率化と品質向上を図り、「皆に喜ばれる」カイゼンを実現する、そしてその手法をチーム全体の運営やさらに試合への臨み方、練習の取り組み方などを変革していく、こういうことになれば、まさに「経営学」の本領発揮でしょう。「洗濯物は汚れの程度や仕上げの必要などで、事前に仕分けしてまとめるようお願いします」とか、「用具の管理リストをつくり、一つ一つにコード番号を振り、試合に行く際に置き忘れやしまい忘れがおこらないよう、フールプルーフ化を図ります」とかね。高校野球の女子マネが、「監督」や「コーチ」や「顧問」を差し置いて、チームや選手のあり方を「マネジメントの視点から」変えるなどという夢物語でなしに。




おまけの話 −やっぱ「洗濯の自由」は闘いとらないと


 私も知らなかったことですが、米国の多くの地では「洗濯の自由」がないのだそうですね。
 正確には、「洗濯(物干し)の自由」だそうです。

 多くの「高級住宅地」では住民協定や自治体の条例などで、屋外に洗濯物を干すことを禁じている、それは「美観を損なう」からだという。

 この話は、ご覧になった人も多いでしょうが、あるテレビ番組で紹介されたものです。その説明によると、米国での電化製品ブームの時代に、メーカーなどの「販売戦略」として、「電気乾燥機を使えば、洗濯物干しは要らなくなる」と大宣伝し、それによりいまだに洗濯物を屋外に干しているのは、乾燥機を買えない貧乏人たちだけだという「常識」ができあがりました。ために、「いい住宅地」であるはずなのに乾燥機も買えない連中がいるのは恥ずかしいこと、そういう「風評」だけで住宅地の評価、住宅価格にも響くという「市場価格」が形成され、「洗濯物を外に干してはいけないない」と明記するところが一挙に広がったのだそうです。


 この国に住んだことのない私として、実際にそういう状況が「常識化」しているのかどうか、確かめるすべもありませんが、ありうることでしょう。まあ、「美観保持」だの「貧乏くささ払拭」だのということで、みんながみんな乾燥機を用いるというのは、さすが日本などではちょっと考えられないし、日本以外で住んでいた英国でも、そこまでの「共同体規制」もなく、庭のある家では一般に、洗濯物が堂々風になびいているものでしたが。


 今どき、日本でも「乾燥機つき全自動洗濯機」はかなり売れていますし、外に干さない主義の人もいましょうが、当然ながらこれでは電気代が相当にかさむことになります。この番組でも、電気乾燥機の使用による全米での電力消費の膨大なことを紹介し、ために近年は省エネや自然保護・地球温暖化防止の観点から、洗濯物の「天日干しの自由」を獲得すべく裁判を起こす人々も現れ、実際に「洗濯物を屋外に干してはいけないなどという規程は合州国憲法に照らして無効」という判決を勝ち取ってきているそうです。「自由の国」において、当然の個人の権利さえも、このように闘いとらなくてはならないのですから、大変です。


 「太陽光」と「風」という自然の恵みを生かすのが何でそんなにけしからん行動になるのか、こんなことにまで人工のエネルギーたる電気を用いないと「ビンボー人」扱いとなり、恥ずかしいことにされるのか、さすがに「欧米人」の「文明」はちがいます。しかしそこはそこ、フリードマン先生にぜひ蘇って頂き、「洗濯(物干し)の自由」を高らかに謳って頂かないといけません。




 この件は、とかく理想化礼賛される欧米的「コミュニティ」の「自治」にも、さまざまな側面のあることを思い知らせてくれます。「共同体成員みんなのため」、「みんなのとりきめ」は、そのエゴや自己中、排外的排他的な姿勢をも正当化させるのです。「みんなで決めたこと」なんだからと、トンデモルールでもまかり通るわけで、それは古典的な農村共同体でも、「市民社会」でも、大差はないのです。言い換えれば、「洗濯物を外に干すな」、「そんな乾燥機も買えない貧乏人はくるな」という、一種の「村八分」ですよね。


 なお、私の経験したロンドンでの二度の暮らしでは、いずれの機会でも「庭付きの住まい」ではありませんでしたので、洗濯物をそとに干す機会は基本的にはありませんでした。その意味では、部屋備え付けの洗濯機兼乾燥機もたしかに便利ではありましたが、これでそのまま着られるようなとこまで「乾燥させる」と、とんでもない時間もかかるし、衣類は傷みそうだし、もちろん電気代billでめまいがしそうなので、主には室内で干しておりました。それでも差し支えないくらい、ロンドンの普段の空気は乾いているし、湿った冬は屋内暖房機のラジェーターに干すという手を使いましたので。

 しかし、それで窓にも洗濯物をつるしていたら、匿名で「そういうことには断固抗議する」なる投げ込み文をもらいました。もちろん窓ガラスの内側ですよ。要するに、外からも洗濯物が見える、それは美観を損なっている、怪しからんやつというわけです。このときは「集合住宅」(日本で言うマンション)の住まいでしたので、そもそも洗濯物というものは人目にさらしてはならんという欧米的「文化」があるのでしょう。

 もちろん、中国や東アジアの国々でそんなことを申せば、一笑に付され、満艦飾の洗濯物が空を覆う風景になんの「変化」も起こりはしないでしょう。それに、たしかイタリア映画なんか、狭い路地の通りを挟んで、両側から洗濯物がはためいている場面がよくあったと思うのですがね。



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