ある大学における「喫煙教育」について



 近頃「愛煙家」は肩身が狭いなどと申しますし、日本人の大好きなどこかの国では、「タバコをすっている」となったら即出世コースからはアウト、生命保険の掛け金も跳ね上がるという状況です。

 でも、この日の本の国ではまだ、そこまで厳しい「反煙原理主義」の盛り上がりはありません。だいたい、政府がたばこ消費税を大いに当てにしている国のこと、「タバコCM」も事実上おおっぴら、喫煙ゆえに損をしたなどという話は耳にしたことがありません。

 ですから、最近のように、駅などでの禁煙表示、あるいはせめてもの「分煙」の案内などどこ吹く風、「俺が何やろーが文句あっかよ」といった趣で周囲を睥睨しながら、「禁煙」の看板の下で煙を威勢良く噴き上げている衆があとを絶ちません。

 「規則は破るためにある」という快感を味わうのも結構ですが、間違ってもらっちゃ困るのは、タバコの魔力に浸っている、「中毒」の本人はよくても、すわない人間たちは、否応なく、そうした他人の煙を浴びせかけられているという事実です。これは明らかに、いわれなき個人の権利の侵害です。「喫煙権」があるとおっしゃる人たちがいるのなら、電車に乗りに来た他人が、その煙の被害から免れる権利を、一方的に侵害するのはやめてもらいたい、これは当然の主張でしょう。


 いま、どんな嘘八百を並べる自称「学者」や「ジャーナリスト」でも、「タバコの煙が健康によい」という新説を唱えることは無理でしょう。せいぜいのところ、「ストレス解消になる」「気分が落ち着く」(ならば、酒だって、ヤクだって、何だっていいはず)などという、言い訳にもならない言い訳を並べるくらいが関の山です。「国営企業」日本たばこ産業株式会社も、さすがに「健康によい」説は唱えておりません。


 本人が、自分の自覚と責任で、肺の奥にまで染みついたニコチンとタールのおかげで命を縮めようが、年中胃痛や咳や体調不良に悩まされようが、心臓がおかしくなろうが、自室のパソコンがヤニに染まってパアになろうが、それは本人の自由だ、という「個人主義」的解釈も成り立ちますが、自分ではタバコをすわない、すいたくない他人が、否応なく、赤の他人の煙に染まった空気を呼吸しなくちゃならないのは、どう見てもおかしなことです。ですから、公共の場所での「禁煙」表示、会合などの機会での「禁煙」申し合わせが増えるのも、「民主主義社会」では当然のことではありませんか。


 でも、この国では、骨の髄まで「ニコチン中毒」の爺さん婆さんや中高年のおっさんばかりでなく、若者の「喫煙」が、ますます増えているような感じを覚えます。駅のホームで、他人の視線なぞどこ吹く風と煙を吐き、吸い殻を足下に投げ捨てているのは、むしろ若者の方が多いようにも思えます。やっぱりいつの世にも、若者は「体制に逆らってカッコをつける」というのでしょう。でも、あえて忠告したい、そんなことは、自分自身には百害あって一利なしですよ、あなたは早く死にたいんですか、だいたい、中年のおやじのまねをするのが、どうして若者らしく格好いいと思えるんですか(何かにつけて、中高年を軽蔑し、「違い」を強調してきているのに)、と。

 なにせ、若者に限らず、今の世の中、10人が10人とも、「ヘルシー志向」「ナチュラル志向」を標榜し、また揃って「スポーツ大好き」のはずです(私は、あんな「体に悪いもの」敢えてはやりませんが)。でも、どうやら健康や自然愛好と、「喫煙」は全然矛盾はしないようなのです。どう見ても、「スポーツ」以上に体には悪そうですが。まあ、車を飛ばして公園や郊外に行き、それからジョギング、ということが当たり前になっている世の中ですから、不思議に思う方がずれているのかも知れません(愛犬を抱いて回って、「犬のお散歩」と称するが如し)。

 もっとも、見方を変えれば、あの「煙にめげない、丈夫な体を作る」という発想もあるでしょうし、うがって言えば、「めげて」リタイアする(つまり、あの世へ急行する)人間と生き残る人間との熾烈なサバイバルを経る、一種の「自然淘汰」過程と見ることもできなくはないでしょう。

 ただ、「健康」だの、「若さ」だのを問うたり、その矛盾をあれこれ言わなくても、たばこは常時「火」ですから、火災・事故の危険もいつもつきまとっています。今どき、ケロシン臭う飛行機の中でたばこに悠々火をつけられると、「この飛行機を炎上爆破させるつもりか」と聞きたくなります。しかし航空会社も、驚くほど喫煙には寛容で、「喫煙権」保護に、依然努力しているアナとか言う会社もあるそうです。その割に、電子機器にはすざましいほどの神経の使いよう、近ごろはこわくて、機内でPCを動かすなんていう勇気ある行動はまずできなくなりました。しかし、同じように、電車(最近はバスも)車内からケータイを一掃する努力にはきわめて熱心な各社も、ことたばこについてはまだまだ「見て見ぬ振り」です。「禁煙」の表示の下で立ち上る煙の列には、掃除の駅員も視線をそらせて通り過ぎるのみです。私から見れば、車内ケータイの騒音より、またその発する電波でのペースメーカなどへの「万一の障害」より、公然喫煙の煙、そしてその及ぼす肉体的苦痛の方がはるかに大きいと思えるのですが。


 でも、あえて「すわない他人の迷惑」などとはもう言いますまい。そうした「他者へのシンパシー」をもつなどという、今どきメルヘンチックな、幼児アニメみたいな感情を求める方が酷というものでしょう。「被災地で困っている人たちを助けるためのボランティア!」には勇んで出陣する若者は多数いるけれど、いま、ホームであなたの隣に立っている、食堂の向かいの席にいる「他人」は目に入らない、全然気にならない、それが「時代」の感覚というものです。


 しかし、せめて、「赤の他人」ではないくらいの間柄なら、「タバコすってもいいですか?」とまず尋ねるくらいの「慣習」は、だんだん広がってきているような気がします。あるいはこっそりと抜け出し、ひとのいないところで一服つける、とか。けれどもまた、「大学の食堂」くらいの距離感存在感になると、まただいぶ事情が違ってきます。

 その点、東京都内にある某大学は、学生への「喫煙教育」を徹底している点、いつも感心させられます。「禁煙教育」の誤植じゃありません。そこの学生食堂には、数年前から、全館「禁煙」の看板や張り紙があちこちにあり、かつてはテーブル上にあったアルミ製の灰皿もすべてなくなりました。その結果、何が起こったかというと、ドリンクの紙コップ、料理の皿、空き缶などがもっぱら灰皿の代用をつとめるようになり、あるいはさらに気の利いた諸君は、床に投げ捨て、踏み消すという伝統の手法を大いに愛用しています。おかげで、食堂館内はテーブルも床も灰と吸い殻だらけ、焦げあとだらけで、実に壮観です。こんな汚いところで、よくものを食べる気力がでるなと、そのバイタリティだけでも感心させられます。
 そして、「禁煙」の表示のもとを、ほとんどスモッグ状態の空気が漂い、遠方はどんよりと霞んででしか見えません。私が来訪をした折りにおおよそ数えてみますと、だいたい、そこにいる学生諸君の3人ないし2人に1人くらいは、紫煙を威勢よく吹き上げています。「ああ、こういうかたちで、『禁煙』の看板など無視するもんだよ、という精神的鍛錬を経てきた諸君が、駅のホームでもどこででも、やっているんだな」と得心させられます。

 まさしく、見上げたまでの「喫煙教育」でしょう。もちろん、それを注意する向こう見ずな人間など、1人もいません(私も二三度やってみましたが、めげました)。それどころか、「禁煙」のはずの食堂の入り口に、堂々とタバコの自動販売機が並んでいるくらいですから。要は、「禁煙」の表示なんて、気休め、アリバイ、みんなああしたものは無視するのが、社会人になる心得の第一歩なんだよ、と「教育」をしているわけです。その某大学は、宗教ミッション系らしいのですが、幸いにして「反煙原理主義」の運動など起こってはいませんので、学生同士の壮烈なゲバルトも当分なさそうです。


 もっともこの大学では、喫煙「教育」の甲斐なく、「教室では、喫煙は慎む」という慣習のみは定着してしまったようです。教室だって、同じように「禁煙」の張り紙があるだけなのですが、さすがにここに入れば、お互い「赤の他人」とも言えなくなりましょうし、何より、「教師」(「先公」ともいう)という存在の面前で、堂々と喫煙するには、非常な勇気が要り、相当のリスクを覚悟しなくちゃならない、という「教育」だけは、中学・高校時代にたたき込まれてきた可能性が大だからです(先公の目を盗んで一服、というのが醍醐味でしょうし)。それに、大学の「教室」というのは、何となくあまり普段寄りつかないところ、ひとの家みたいに居心地の悪いところでもありますので。

 それでも、校門を出て、「コンパ」(近頃は「飲み会」という)だ、合宿で一席だ、となりますと、「タバコいいですか?」(「すいません」と言いつつ、タバコを「すう」という、古くさい駄洒落)の問いもあればこそ、一斉に煙を噴き上げ、70年代はじめの川崎や四日市もかくやとばかりの様相を呈します。飲むほどに、酔うほどに、タバコに火をつけるピッチがあがり、それをほとんど皆がやる(わずかばかりの「非喫煙」マイノリティはひたすら縮こまり、耐えるばかり)のですから、閉め切られた居酒屋の一室など、視界ゼロに近い、完全「薫製状態」になります。服から髪から、下着にまで、たっぷり3日分くらいのにおいとヤニがしみこんでくれます。ここまでくれば、風邪のウィルスもなにもみんな殺菌死滅するんじゃないか、という錯覚にさえ陥ります。もっとも、雑菌まで死滅する際には、「肉の持ち主」も息絶えているはずでしょう。
 それになお、教師もじっと耐え、「ちっとはたばこも遠慮しろよ」などとさえも言わず、ひたすら我慢を重ねる(最近は、だから長時間「つきあっている」と、どうしようもない倦怠感を覚え、体調も悪くなる、もちろん酒もまずいとも感じるが、これは寄る年波のせいか、年々ますます学生諸君と齢が離れ、ついていくのが精神的にしんどいせいかも)のですから、結局教師も「喫煙教育」に大いに一役買っていること、これも否定はできません。


 これだけ徹底した「喫煙教育」を行っている大学は、やはりなかなか誇れるものと思います。教職員の間だって、大いに煙が漂っているのが日常なのですから(最近はそれでも、公式の会議の場は禁煙とする例が増えたという話も聞かれます)。これは、「納税意識」の高さの反映という解釈もありそうです。


 ただ、私が「米国系外資企業」の社長ならば、この大学の学生諸君はあまり採用したくないでしょう。



 なお、かく申す私自身、実はconvert であるのは、紛れもない事実です。10年あまりにわたる「ヘビースモーカー」でした。もっぱら、銭のあるときは「富士」や「ピース」、ないときは「スリーA」、貧しいときは「ゴールデンバット」など愛用していました(後には「ハイライト」)。ですから、今さら「反煙原理主義」の運動に加わるのは、あまりに後ろめたくもあります。でも、いまから17年前、タバコをやめてから、すっかりひとの煙が嫌いになってしまいました。そして、それから一本もすわず、健康になってしまいました。以前はいつも「胃腸の調子がよくなかった」(まるちゃんの同級生山根君のように)のに、タバコと縁を切ってからは、すっかり変わってしまったのです。おかげで、食欲も飲欲も増し、年1kgずつの「安定成長」を続けているという、「問題点」もあります。

 だから、「何でたばこがやめられないのか?」という問いへのこたえも、経験上ある程度心理的に理解できます。「てめえの健康なんかせせこましく、いじましく気にするより、一瞬の『快楽』に身を委ねる方をとるんだ」という、幾ばくかのニヒルな逃避感、他者の冷たい眼差しへの反抗感、そして、自分自身が行き詰まっているときの、なにもできないときの、刹那的な解放感、目の前のひととの話がこれ以上すすみそうもない、なにか逃げ道を探し、間を持たせたいときの安堵感、それらはみんな魅力的魅惑的でもあるのです。

 でも結局、私は体質として、タバコがまったく向いていなかったのでしょう。世の中には本当にまれに、タバコに染まりきっていてもずっと健康のまま、長寿を保つという人もいます。でも、それは実にまれであって、多くの人は、私同様、タバコをやめれば、ずっと健康になるに決まっています。学生諸君の多くが、年中体調がよくなく、すぐ風邪を引く、食欲がない、暑さ寒さに弱い、そういった状態であるのは、日頃の食生活の問題や、バイトでの「働き過ぎ」の問題の影響も大でしょうが、喫煙が無縁でもないような気がします。タバコを日常的にすっていると、日常的に「ムカつく」ようになるのも、経験からいって事実です。



 →「異論・反論・オブジェクション」をどうぞ(どっかのインチキ臭いジャーナリストみたいだな)。