三井のロンドン絵日記(15) 続


でも、「大会運営」はめちゃめちゃ


 私が英国の「アカデミズム」を単純無垢に礼賛しているなどと思われたら、不本意なことです。


 学会のアカデミックな水準維持の努力とは反比例して(それが理の当然か)、肝心の大会運営はかなりひどいものでした。最悪なのは、プログラムの大幅変更です。

 立派な色刷り(glossyと言う)の大会プログラムは、かなり前に準備されたもので、全体会の概要やパネラーの紹介のほかは、肝心の分科会やシンポジウムの細目はまったく載っていません。それは、A4一枚に全部詰め込んだ(明らかに縮小コピー)一覧となって、大会プログラムとともに、開催3週間ほど前に送られてきました。実に高年齢者泣かせと思いますが、ともかく一所懸命さがして、自分の報告が行われる予定の分科会とその日時を確認、大会第3日目の午前で、かなりみんな帰っちゃう、いても前夜に飲み過ぎて、「二日酔い」状態なんじゃないか、などと想像をしていました。


 さて、そのつもりでダラムへやってきて、その晩です。バンケット会場のダラム城大広間、そこへ向かう手前の控えの間、ごった返す中で、例のごとく一杯食前をやっているところで、デビッド・ストークスが「プログラムが変更されているの知ってるか?」と言ってきました。「なに?」と愕然ですが、なんしろ相当に変わっている、全体に繰り上がっているから、あんたのは明日だと思うよ、と言うのです。えらいことですが、この場で確かめようがありません。

 ようやく(寒さに震えたのち)終わったバンケット会場からホテルに駆け戻り、確かめてみました。すでにデビッドが発見していたことですが、要するに事前に送られてきたプログラムは古いもので、今日会場に着いた際、受付で配られていたプログラムが変更後最新版だ、というのです。確かに、二枚を取り出して比べてみると、内容が相当に変更されています。しかし、体裁もまったく同じ、なんせ字が細かいので、一見したところまるで違いがわかりません。

 確か、受付では、「プログラムをお持ちですか?」と聞かれたので、例のごとく、せっかく送られたものも置いてくる人も少なくないだろうから、親切に増刷して配っているのだろうくらいに思い、持ってきてはいるけれど、じゃあ念のため、と貰っておいたのです。貰っておいてよかったというところです。でも、「プログラムが大幅に変わっています。こちらをご覧下さい」なんて、まったく言ってはいませんでした。

 あるいは、開会挨拶と最初の全体会開始の際に、主催者側から説明があったのかも知れませんが、当方これも例のごとく、遅れた列車のおかげで、始まってかなり経ってから、会場に着けたのです。もちろん、「プログラム変更にご注意下さい」などといった張り紙の類も一切ありませんでした。変更に気づくために、せめて新しいのには「Revised」「New」などとスタンプをしておいたっていいじゃありませんか。


 ともかく、私にとっちゃ一大事、いつもの怠慢さで、だいたい報告の用意は終えてきたんだけれど、スピーチのための原稿は時間切れ、未完成、土壇場二日目の合間でもみて仕上げるかなどと考え、その用意の道具一式を担いできたのです。でも、明日、しかも午前の分科会で報告と繰り上がっちゃあえらいことで、その夜はPC相手に懸命に働きました。

 なんとか、報告の体裁を仕上げることはできましたが、それにしてもひどい話しです。私にして、デビッドから前夜聞かなければ、そのままのんびりしていて、自分の報告の場に行かず、なんていう最悪のことになったかもしれません。あるいは、私以外に、プログラム変更に気づかず、自分の発表の場を知らずに過ごした人間が少なからずいたかも知れないのです。もちろん、個々の報告者への、変更の連絡などという殊勝なものは一切ありませんでした。

 報告者に限らず、事前配布のプログラムを見て、その中からこの話を聞きに行こうなどと計画していた人たちが、見事当てが外れたということは多々あったに違いありません。それでは、事前にプログラム一覧を郵送した意味は全くないじゃありませんか。


 こういったことを指してかつてニッポン人たちは、やはり自分で見て、自分で判断し、行動するという、欧米流の「個人主義」と「自己責任」なんだ、ひとまかせじゃなく、いつも注意していることが大事という教訓などと、勝手に想像をしていたものでした。そうじゃなく、要するに最低、というだけです。こうした会合を開くについて、なにが本当に大事なのか、なには絶対欠かせないのか、ということがおよそわかっていない、はっきり申して「無能」とするしかありません。バンケット会場のワインは何にするかとか、会場内の各スポンサーのポスターやディスプレイはどの辺に飾るかなどということには気をつかっても、学会の大会に、分かりやすいプログラムとスケジュールと会場案内を用意する、誰もがそれを間違いなく把握できるようにする、大事な変更は万難を排して当事者に率先連絡する、こういったことにはまったく頭が回らないのです。


 ちなみに、もう一つ参ったのは、会場が実にわかりにくいことでした。2つのホテルに分かれて会場が設けられたのは、規模の点からやむないし、その間の距離も100m足らずなので、まあ構わないのですが、その各会場となるホテルの会議室が、建物が古く、複雑なできとなっているせいもあって、探し当てるのに一苦労です。例によって、「聞け」となりますが、会場係やホテルのスタッフに聞いて、何とか道順はわかっても、その尋ね当てたところに肝心の会議室があるのかどうか、部屋の名を大書したりしていないだけに、そこでも迷ってしまうのです。そんなものを麗々しく目立つように記したりするのは、元来品がないこととされているのでしょう。でも、はじめて来た人間には最悪です。

 これはようやく二日目以降になって、会場の扉にはその部屋の名を記した紙が貼られ、少し分かりやすくなりました。なぜ、そうしたことをはじめから用意しないのでしょうか?ホテル側から、変に目立つような目障りなことはやってくれるなと言われていたのでしょうか?もちろん、事前配布のプログラムにも、会場でも、「案内図」といった類のものはなんら用意されていませんでした。


 ともかく、さように「会議を開く」ことの基本がまるでなっていません。ダラム大学ビジネススクールの職員や学生らが相当数、各係として動員されていたようですが、一目瞭然にわかるのは、それらを「仕切る」ゼネラルマネージャーがいないのです。いろいろ仕事を分担してあっても、このように肝心のことで支障が生じる、それを見て直ちに判断し、指示を出すという人間がまったく不在です。もちろん、各係りが「勝手に」気を利かすというようなことは、この国の常識としてあり得ません。ホテルを会場としたことで、ホテル側と主催者側のマッチプレーができていないということも感じました。

 当然ながら、一つの学会を開くというのは、大事小事さまざま、実に大変なことです。うまくいって当たり前、何かトラブルがあれば怒られる、あとあとまで陰口をたたかれる、それが通常です。私も、数年前、「社会政策学会」の大会を開催する役を負い、さんざんに経験をしました。そのうえ、millenium には、日本中小企業学会の大会開催をすでに引き受けることになっています。

 でも、それだからこそ、開催校の苦労とともに、もっときちんとできるはず、そのくらい当然じゃないのか、という思いが、むしろ自分の問題、教訓として感じられてきます。


 今度のダラム大学の場合、この学会の第一回大会を開いた記念すべきところだそうですが、はっきり言って、自分たちが「目立ちすぎ」です。ダラム大学中小企業センター所長のアラン・ギブ教授は確かに現在活躍中の第一人者のひとりですし、弁が立ち、その発言は大いに注目されます。でも、結局振り返ってみれば、ギブ教授は、全体会、シンポジウム、さらにDoctoral Day まで含めて、至るところで主役を務めているのです。それも結構だけれど、それなら大会の設営・運営の実質責任者、うえに書いた「仕切る人間」が誰かいなくちゃならないでしょうが。



 このほか、あまりの寒さに震えた、ダラム城大広間でのバンケットも特筆すべきものでした。もともと古い城は、冬にはしんしんと冷え込みます。いくらそれがダラム市の誇りであったって、これは自明です。そういうところを会場にするのが適切なのかどうか、それなら何か暖房の手を打てないのか、唯一の「暖房」は、卓上の燭台だけでした。そのうえ、会場ではみなの談笑の声が高い天井に思いっきり響きわたり、ひらすらうるさく、古楽器の演奏もまるで聞こえません。

 晩餐終幕での、例によってのスポンサーの挨拶、そしてこれに関連して、この地域で自分の企業をおこしたサクセスストーリーの「若社長」の挨拶(と思われる)、これらは音響設備の不良もあって、最前列10数人以外にはまったく聞こえませんでした。あとの一同、寒さに震えながら、この若社長の演説が終わるのを待つのですが、本人すっかり調子に乗ったのか、ジョークを連発、いつまでも続きます。食べ物も飲み物も底をつき、白けきった中で、ようやく終わった挨拶に、会場万雷の拍手、歓声、そしてあっと言う間にみんな退散をしました。


大会二日目のレセプションは、今度は市庁舎ホールが会場で、こちらは十分暖房が行き渡り、飲み物も思い切りたくさんあってよかった(地元のビールが思い切り余って、大会終了後ただで配られていた)のですが、主催者の意図で、この会場内に数々のlocal small business peopleの出店を用意させ、実演販売をやって、今度もひたすらごった返します。ワイングラスを抱えて、人とぶつからないように右往左往するのは至難の業です。

 その会場で、「福引き」が行われました。ロバートは、この福引き抽選係にもなっていて、私も「申し込み票」を丸めて箱に入れるのを手伝いました。でも、そこで当選した数人のうち、その場に現れて商品を受け取ったのはひとりだけで、寂しいものでした。


 大会三日目、閉会式では、恒例となっている、大会での「最優秀プレゼンテーション」への「スタン・メンダム賞」授賞式が行われました。長年この学会を支えてきたスタン・メンダム氏の挨拶は、「ISBAとSBRT(中小企業研究財団)の統合を実現しよう」という意見で、ちょっと場違いな雰囲気を醸し出してしまいました(こういうのは、まだISBAの理事会でもなんら合意されていないようです。それに、それぞれの歴史や成立の経緯、スポンサーとの関係 -後者はナットウェスト銀行が長年の主スポンサー- を考えると、そう簡単なことではなさそうです)。それはともあれ、もっと白けたのは、肝心の「メンダム賞」受賞者と、第二位の受賞者はどちらも会場に姿なく、第三位受賞者のみが賞状と記念品、賞金を受け取っただけだったことです。

 3日目ですから、もう帰っちゃうというのは十分あり得ることですが、さしずめニッポンだったら、主催者が急ぎ、選考結果を当人たちに伝え、何とか授賞式まで引き留めるように工作する、というところでしょう。そういう「根回し」はなし、さすが英国流です。


 そんなこんなで、「アカデミズムの権威と実力」が高まるほど、ものごとのorganise という基本的能力は低下し、その体制はガタガタとなるという、見事な法則を検証してもらえました。これは私にとっては、二年後への「反面教師」でもあります。





もとに戻る