三井のロンドン絵日記(14)

テームズバレイ大学の挫折





 すでに書いてきましたように、数年前に英国のほとんどのポリテクニックが「ユニーバーシティ」を名乗ることを許され、私の現在滞在しているところも、「キングストン・ポリテクニック」から1992年に「キングストン・ユニバーシティ」になったわけです。


 英国では建前上、こうした新興の「大学」も、伝統を誇るオックスブリッジや、近年名をあげたブリストル大学なども、「すべて同じレベル」ということになっています。それにふさわしい教育内容・研究水準が要求され、特に「学位」については、どこのどのコースを出ようが、基本的には同じ基準で評価され、学位が与えられているとされているのです。それを保証するために、「博士」授与どころか、一般の学部卒についても、各科目の単位取得や卒業試験の合格には、その大学の担当教員以外、他大学の教員が加わって成績評価を行い、「公平」を期す、という制度になっています。


 もちろん建前はしょせんたてまえなので、世の中全体が「すべて大学と名のつくところは同じ」と見てくれているわけではありません。オックスブリッジは事実上別格の存在です。「旧制」大学の中でも、世間では声望高いところと、あまりそうでもないところが従来からありました。まして、新興の「ポリテクニックあがり」大学がそのまま、「旧制」大学と同じに見られるには、相当の時間を要しましょう。この辺は日本の事情と、実際には大差ありません。「ポリバーシティ」(polytechnic がuniversity になったんだから)という、「蔑称」もあることを知りました。

 さらに、英国の大学等高等教育機関には、サッチャーリズム以来の「競争・市場万能論」の影響大で、その教育水準や研究活動などについて、あからさまな「評価」がいろいろ出され、ランクづけを受けています。これらの数字がどれほど権威があり、またどれだけ「客観的」と言えるのか、残念ながら私にもよくわかりませんが、そういった数字は、一般の「大学受験資料」だけじゃなく、新聞にも細かく載っています。ですから、「大学間に格差はない」という建前より、「現にこれだけの差がある」、それを前提にして進学を考えろ、あるいは各大学はいっそうの努力をせよ、という話しに実際はなっているのです。

 もちろん、日本のように「受験偏差値」などというばかげたものが、そのまま「大学の評価」を示すものなどという発想はありません。大学が志望者を受け入れる制度が日本とはまったく違いますし、それにこうした評価の数字は、各大学の、日本で言えば学部・学科毎に細かく出され、またさまざまな種類の物差しが用いられ、それを受験生も見ているのですから。ただし、大学の受けている「評価」は、政府の補助金や研究費の交付額に響いてきていることも事実です。



 こうした中で、新興の「ポリバーシティ」の一つであり、またそれだけに、ユニークな仕組みを打ち出して、世間の注目を集めてきたのが、元「ウェストロンドン・ポリテクニック」であった、テームズバレイ大学(Thames Valley University)でした。ロンドンの西、イーリングとスローをキャンパスとするこの大学は、「昇格」に際して、従来の大学にはない特色を出そうと試み、一つには、これまでなら、「それが大学の科目?」と思われるようなものを大胆に揃えたのです。たとえば、「レストラン経営学科・インド料理専攻」とか、はては「たこあげ専攻」まであり、です。当然ながら、「情報処理」関連、特に「デジタル画像デザイン」やら「録音録画・放送」といった分野は大きな目玉になりました。また、外国語関係の充実も売りものです。もちろん、情報化関係のテクニック習得はさまざまな専攻の学生にも開かれた機会で、全学生がメイルアドレスを与えられます。

 第二の特色は、こうした多様な科目を並べ、「主専攻」「副専攻」的な選択を可能にしたことです。米国の大学は一般に行っているやり方ですが、英国ではそうした考え方は従来ありませんでした。このテームズバレイ大学のみならず、近年は新旧さまざまな大学が、「モジュール化」などの方式を掲げ、複数の分野を選択できるようにする動きを示しています。(ちなみに、すべての学生に「強制的に」、外国語、保健体育、はては「一般教養」などといった科目の履修を二年間にもわたり義務づけ、その一方、自分の学んでいる「専門分野」はどの辺にあるのか、当人にもよくわからないなどという、世界でもまれにみる不思議な「大学」というのがニッポンの「常識」であったというのは、誰も信じてくれないでしょう)。

 第三に、大胆なくらい大幅に、「mature students」(日本で言えば、「社会人学生」)の受け入れをすすめたことです。これは、建前としては「教育の機会均等と社会的正義への貢献」であり、またマーケティング戦略論で言えば、当然「既存企業との差別化・新市場開拓」の手法と言えましょう。従来の「学生」の市場で勝負するのではなく、新しい成長市場を率先して開拓しようというわけです。その結果、テームズバレイ大学では、全学生の2/3以上が「社会人学生」、その多くが「パートタイム」(日本で言えば、「夜間部課程」というところ、もっとも必ずしも夜間に受講するわけじゃありませんが)という形をとることになりました。もちろんこれと、科目メニューの多様化、副専攻選択といった方式は深く結びついています。現代の社会人のニーズを掘り起こし、それにこたえる教育を大学レベルで実施する、もちろんそれを可能にする受け入れ態勢を整備する、ここに世間の注目を集める理由もあったわけです。



 こうした行き方は、世間の注目のみならず、高等教育の普及大衆化・現代化をすすめる政府の教育行政の路線とも合致するものでした。mature studentsの拡大は、教育レベルの向上と、最新の技術や知識への適応訓練機会拡大をすすめるうえでの重要な労働力政策です。そのおかげで、テームズバレイ大学は、全学生数3万人という、英国最大の規模の大学に急成長、一方新築相次ぐ斬新なデザインの建物や、最新の情報機器などの設備の相次ぐ充実ぶりも、羨望の的となりました。TVの「未来の高等教育を語る」といった番組にはよく、「絵になる」同大学の風景が登場してきたものです。


 ここまでだけなら、絵に描いたような「サクセスストーリー」で、ニッポンのマスコミや自称「評論家」の方々の絶賛を受け、文部省が得意満面に「こういうのを一つお手本にしないと」と説教して回って、話しは終わりになれたのですが、残念ながら不幸な「後日談」が待っていたのでした。



 11月第二週、新聞やTVニュースをにぎわせた出来事として、「チャールズ50歳!」や「第一次大戦終戦80周年」、「第二次イラク戦争迫る」と並んで登場したのが、「マイク・フィッツジェラルド氏辞任を余儀なくされる」という記事でした。このフィッツジェラルド氏というのが、テームズバレイ大学の華々しい新路線をすすめてきた、同大学の副学長だったのです。ちなみに、英国の大学ではほとんど、「学長」というのは全くの名誉職で、世間での地位の高い王族、貴族や引退政治家、実業家などが名前を貸しているだけです。実際に大学にあってその運営に実権を持っているのは、名前の上では「副学長」(Vice Chancellor)なのです。


 事態は、テームズバレイ大学の現状に対してさまざまな疑問を呈する声が多々寄せられたため、「高等教育水準維持局」(Quality Assuarance Agency)が同大学を調査、その結果大学の「学問的評価の水準に多々問題があり、学位授与機関としての資格に欠ける疑いあり」との報告書を出した、ということで、一挙に表面化しました。この機関は、「高等教育水準委員会」(Higher Education Quality Council)を受けついで、英国の大学の学問的水準維持のために昨年設置されたものです(いわゆる「エージェンシー化」)。そして、この報告を受けて、政府の「イングランド高等教育助成委員会」(Higher Education Funding Council for England、92年の高等教育改革で、従来別個に処理されていた大学とポリテクニックへの国庫助成を、その他の高等教育機関向けも含め、統合して扱うようになった。一時期、水準維持局はこの一部であったが、のちに独立した)が、同大学に対する調査と指導のための行動チームを置くに及び、事態の責任をとる形で、フィッツジェラルド副学長が自ら辞任を申し出たものです。


 こうした形で、大学の存在自体に疑念を呈するような評価が公にされ、その結果大学首脳陣が退陣に追い込まれたというのは、恐らく英国の教育史上はじめてのことでしょう。もちろん、水準維持局の報告書も、テームズバレイ大学の大胆な試みには敬意を表しながらも、そこでの単位認定や学位授与(卒業認定)が、アカデミックな水準にひどく劣っており、これでは英国の大学の学位の質を低下させることになる、という問題を厳しく指摘したのです。そして、この報告書のもととなった同大学の現状に対する疑問の声は、他大学から試験評価などに参加した教員から多々寄せられたもののようです。つまり、英国における「大学教育」というものの、あるべき水準に対する一つの共通認識が、テームズバレイ大学の教育の現状を強く批判する原動力となったと言えましょう。


 まあ、野次馬的に見れば、そもそも他大学に「類例がない」新しい科目や学科・専攻についての成績評価を、「他大学の教員が行う」ということが果たしてできるのか、しょせん「旧態依然な」「アカデミズム」の自己保身的動き、「出る杭は打たれる」的やっかみ、「毛色の変わったこと」への蔑視があるんじゃないのか、という気もしないではありません。また、この大胆な試みをすすめてきた、若干47歳、英国大学最年少、もじゃもじゃ頭に耳ピアスの「野人」マイク(ただしケンブリッジ卒)の、やり手ぶりへの感情的反感や政治がらみの思惑の動きが背景にあるといううわさも聞きます。


 しかしまた、こうした一連の事態は、英国に限ったことでなく、世界各国共通して、「大学」とは、「大学教育」とは、現代社会の中でなにができるのか、なにをまたなすべきなのか、ということへの根本的な問いかけをはらんでいるようにも思えます。それに対し、想像を絶する規模・程度で、「アカデミズム」という領域と方法、その水準評価といったものを確立し、普遍化してしまっている欧米社会と教育制度、「学界」がこれまた永遠不変に万能と言えるのか、甚だ疑問にも思えてきます。「たこあげなんか学問じゃない!」、そう言ってしまえば話は簡単です。でも、ともかく一度は、「たこあげ」を大学の科目として認知したのであり、またそれは「学問じゃない」と切って捨てる根拠がどこにあるのか、これも、およそ「学問的」「根元的」(ラジカルな)問いかけには相反する「絶対普遍」な物差しをつくり、また「現実」からひたすら遠ざかる結果になりかねないものでもありましょう。まして、すでに少なからぬ世界の大学が争って取り入れている、情報関連とかメディアとかいったものこそ、「現代的」テーマであることは間違いないとしても、これらに既存の「アカデミズム」の物差しを当てはめることがどこまで有効なのか、そうした分野の発展を知る人ほど疑問にも思えてきましょう。



 「ニッポンの場合」?全然心配いりません。「大学の成績評価」やら「学位の水準」やらに関心を持つ筋は皆無ですし、そんなものはじめからだれも本気で信用しちゃいません。テームズバレイ大学以上に「毛色の変わった」学部や学科、科目が続々できても、「アカデミズムの権威」を気にする人など、ごく一部の「大学者」以外、世の中に誰もいません。それどころか、マスコミ「紋切り型枕詞辞典」の第一項は、「旧態依然・古色蒼然の学問にしがみつく『象牙の塔』」をやっつけろ、それに使えるものは何でも誰でも大歓迎、これに尽きています。いっぽうまた、日本の社会一般はもとより、大学の中においてさえ、欧米流の「アカデミズム」の権威どころか、これに対する敬意も怪しいもので、ルールも仁義もない「わがもの流」がまかり通っています。それじゃあ、まともな「議論」「論争」が成立しないだろうって?別に「議論」なんか好まないこの社会では、これまただれも困らないわけです。「理屈じゃないんだ!」この一言で終わっちゃうのですから、「理屈」と「議論」のたて方とルールを教える欧米「アカデミズム」はもとよりなじみがたいのです。


 そのどっちがいいのか、私自身はいずれにも与しがたくて(その能力がなくて)、甚だ迷っておりますが。

 「2000年以降、『出にくい大学』をめざす」(私は、「2000年問題」で世の中や交通機関が大混乱となり、大学「通学」に数々障害が生じて、「出にくく」なるというのか、と思いました)と、文部省は新方針を打ち出したそうですが、いくらなんでもこんなレベルじゃあ、欧米等の大学に比べて恥ずかしすぎるという気持ちも分かるものの、それは社会自体が、「アカデミズム」の普遍的価値を認め、活用する限りでのみ機能するものです。「大学卒業」と「学士学位」がまったく形骸化してしまっている現実の中で、大学だけがあがいてみて、なにができるというのか、残念ながら疑問とせねばなりません。もう少しわかりやすく言えば、大学での専攻分野と、学位と、そして卒業成績が、就職などに大いに関係する欧米社会と、ほとんど無関係、まあせいぜい「有名校卒(予定)」の看板のみがもの言うニッポンの社会との違いをどうするの?ということです。





 第十五部へ