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2016.07.30. 掲載
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今年80歳の傘寿を迎えたが、その少し前から老化を強く自覚するようになり、死に支度を考えはじめた。そのころ、大学入学以来の畏友濱田辰巳君から、個展の案内が届いた。彼の水墨画は、入選作を何度か鑑賞したことがあるが、個展は最初で、ぜひ見せていただこうと思った。
私は自分の生きてきた記録を残すことを大切に思う人間で、その多くをWebサイト(ホームページ)に掲載してきた。私が個展を開くことがあれば、作品だけでなく、その記録も必ず残そうとするだろう。
その思いから、個展の鑑賞記録を残すことにした。
会場の茨木市立ギャラリーは、阪急「茨木市駅」高架下、ロサヴィア2階にあり、絵画、版画、彫刻、工芸、写真、書、デザイン等の美術作品の展示場である。ここは、通勤客が気楽に立ち寄れる立地条件に恵まれている。惜しむらくは、採光不十分の場所を散見したことである。一部の写真に反射光が混入し、取り除けなかったことが残念だった。
展示された作品は40点を上回る。これを自分が分りやすいために、1.花、2.魚、3.鳥、4.動物、5.人間、6.風景、7.そのた に分類し、構成配置した。これには、作者のご不満は大きいと思われるが、お許しいただきたい。
1955年に大阪大学医学部に入学した。当時2年間の教養課程を経て4年間の医学専門課程に進み、1年間のインターンを終えて、医師国家試験に合格すると、医師免許証がもらえた。
濱田君とは入学当初から親しく、油絵のてほどきをしてもらい、彼にはクラシック・ギターの手ほどきをした。私は油絵を描くことは続かなかったが、彼はクラシック・ギターの教則本を独学でマスターしたようだ。
絵を愛し、音楽を楽しむ彼は、学生時代からもの静かで、思慮深く、思いやりのある人だった。まじめで、悪ふざけなどとは無縁だった。
今回の個展では、一つ一つの作品に付き添って説明をしてくれたが、補聴器を装着しているにも関わらず、半分近くが聴き取れない。老化を痛切に感じるのは、この聴力低下であるが、もう慣れてきて、それほど苦痛ではない。
鑑賞を終えて、お茶を飲みながら交わした会話から、面白いことを知った。高校の受験勉強時代に、彼は絵を描くことで息抜きをしていたという。私は、同じとき、昼休みになると校内の図書館に行き、平凡社の世界美術全集 全36巻を眺めることを日課にしていた。この全集は、図書館の本棚1列を全部占めるほどの大部だったのを覚えている。他に、エコールドパリの美術書も、この頃から眺めはじめた。
しかし、絵は鑑賞に留まり、描くという方向には進まなかった。音楽は鑑賞よりも、歌うことで、暗い高校の受験勉強時代を乗り越えた。それはシューベルトの歌曲集「冬の旅」だった。
受験勉強時代に、私たちにとって、絵画や音楽が助けになったというこの話は興味深かった。
生き方についても、似たところがあることに気が付いて面白いと思った。それは「アングルのバイオリン」的な生き方である。
フランスの新古典派と云われたアングルが、職業である画家としての評価よりも、趣味であるバイオリンで評価されることに、より重きを置いていたという話である。
私も、職業である医師として評価されるのは当然のことであり、いい加減な評価ではむしろ不快になるかも分からない。しかし、余技の上での評価(これはほとんど自己満足と同じ意味)を大切に思って来た。
濱田君も放射線科専門医として名をなした人であるが、趣味の絵画(水墨画)を大切にして来た人だと分り、嬉しくなった。その集大成である今回の個展に招待されたことをありがたく思う。
医学部の専門課程に進むと、解剖学の実習がある。私たちの時代は、一人の献体を6名で解剖した。この解剖実習を通して、結びつきが強くなり、友情が生まれた。そのメンバーは、野田寛治、野中清也、野村 望、濱田辰巳、林 秀茂、播口之朗である。
この6名の内で、生存しているのは、濱田辰巳君と私の二人だけになってしまった。医学部の同窓生80名中20名(4分の1)が亡くなっていて、その割合は他の学年より多いのだが、私たちの解剖グループでは、それが6名中4名(3分の2)となるのだから、運命は分らない。その運命の中で、私たちは充分生きてきたと思う。悔いはない。
1.素晴らしい水墨画の個展であった。
2.これぞ「アングルのバイオリン」だと思った。
3.友の個展を記録に残せたことが嬉しい。
4.命あるかぎり、生きることを楽しもう。
5.明日という日がないと分っても、今日もしたいことをしよう。
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