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編集段階で、多少変わったと思います。根本的な内容の変更はなかったですが、一部の変更や、小見出しを入れるなど、また注を本文中にもちこむなどいつものより、形式上の変更は多いと思います。
つきあわせるべきですが、フォローはさぼらして下さい。

『はじめて学ぶ社会福祉』第1巻
「社会福祉概論」
プロローグ 社会福祉と私たち

1.社会福祉という言葉のもつイメージ

 社会福祉という言葉を聞いて、一般的に人々はどのようなイメージをもつだろうか。筆者は、毎年大学での授業の最初に「社会福祉という言葉を聞いて」というテーマで、簡単なレポートを学生に提出してもらう。それを見ると、まさに「社会福祉」という言葉が千差万別にとらえられていることが分かる。そしてこの状況をさして、社会福祉実践の曖昧さや、学問としての未成熟さの証明とする意見が時に出される。
 実際、学生のレポートをみても、ある学生は「みんなが幸せになること」を福祉という言葉から連想し、また別な学生は「お年寄り」や「障害をもつ人」のことについてふれたレポートを書いてくる。また、「保母」や「指導員」「寮母」といった具体的な職種を思い浮かべる学生もいるし、施設での「介護」や、経済的な援助といった仕事の内容を思い浮かべる学生もいる。さらには、「社会福祉」という言葉から、「暗い」「大変」といったマイナス
のイメージをもつ学生もいれば、反対に「暖かい」「やりがいがある」といった印象をもっている学生もいる。
 社会福祉という言葉のもつ意味は、このように千差万別であり、一言であらわせない現状があることは確かである。しかしよく考えてみると、実はこれらのイメージのずれは、社会福祉の全体像をそれなりに表しているものなのだということが分かってくる。
 例えば、「幸せ」は、社会福祉の「目的=目指すもの」について触れているといえるだろうし、「お年寄り」や「障害をもつ人」は、この場合、社会福祉の「援助を受ける人」のことだろう。そして、「寮母」や「指導員」は「援助者」だし、経済的な給付や施設での介護の提供、在宅でのお世話といったことを連想した人は、まさに社会福祉の「援助内容」に注目したということになる。
 我々が、社会福祉について学んでいくに当たっては、先ずこのような社会福祉の全体像を大まかに把握しておくことが必要になるのである。そうでないと、それぞれが、自分のもつ「社会福祉イメージ」のみを正しいと信じて人と話すとき、他人の意見を受け入れられないことにもなりかねない。
 詳しくは、第1部以下で論じていくことになるが、ここでは、ごく簡単に社会福祉の全体イメージについて触れておこう。

2.社会福祉における実践と理論の関係

社会福祉の「目的は何か」という問いに対する回答は、福祉問題への焦点の当て方や福祉が目指す地点をどこに置くかによって、研究者や実践家の間でも一様でない。
 ある人が生活に困っているとして、「ひとまず現在抱えている問題を回避する」ことに焦点を当てるのか、「問題を本質的に解決する」ところにまで至るべきと考えるかによって、答えは異なってくる。その意味では様々な書物を読み、講義を聴く中で、また実践を通して考えていく中で自分流の社会福祉観を各自がもつことが必要になってくるだろう。

 実際、本書の執筆者の間ですら「社会福祉」についての意見は完全に一致しているわけではない。しかし、それは「社会福祉実践」の曖昧さや「社会福祉学」の他学問と比べての未熟さを表すものではない。このことを、社会福祉を学ぶ人は是非間違わないでほしい。
 あらゆる「学問」は時代の変化、他科学との交流、新たな学問の発生などとの関係の中で日々変化するものであり、その研究領域や対象への関与の方法については歴史を越えた絶対的な基準などないのである。
 特に、社会福祉の「援助学」としての側面に注目したときその傾向は明らかになる。「社会福祉学」は、「医学」や「看護学」、「教育学」「法学」などと共に、いかに人間や人間社会を「援助していくか」という「援助実践」(医療、看護、教育、司法など)との強い関連をもつ。そして、「援助実践」は、「人間」の置かれる立場、経済、政治をはじめとする社会状況との関連によって、その判断に影響が出ざるをえない側面がある。
 たとえば、「医学」は世界共通のものでなければならないが、経済的に豊かで平和な状況の国家にすむ「病気の人」と、国家財政が苦しく戦争中の国にすむ「病気の人」とでは、医師のとりうる態度(「医療」行為)は違うものになってくる。また、同じ弁護士であっても、日本と米国では現に法律も違うし裁判の制度も違うのであるから、顧客から依頼を受けた時に弁護士が考えること、とりうる行動は日米で全く違うだろう。そして、同じ日本でも、時代によって医療の、司法の、福祉の専門家が果たしうる役割は変わってくるのである。
 では、医学や、法学は世界中でバラバラに研究されているのだろうか。もちろん、そうではない。個別の実践は強く現実に規定されながらも、その背景には一定の共通の理念や技術を前提とするのである。日米の法律家は法制度の違いにも関わらず共通のテーマについて語り合うことができるし、世界中の医師は「人間の健康」のために理想を一つにすることができる。
 ここが、「学問」と「実践」の関係のポイントになるのである。「援助実践」に対して、理論的、技術的基盤を提供する「援助学」というように関係を整理するとわかりやすいだろう。「援助学」はある程度国や時代を超えた、共通の価値判断や技術を「援助実践」に対して提供することが、第一の目的になる。そして、それは個別の状況の困難さに流されて「実践」が妥協することを防ぎ、目標を達成するためのものでなければならない。しかし同時に
「理論」は、単なる実現不可能な空論であっては意味はない。
 社会福祉理論の伴わない社会福祉実践は危険であり、実践を視野に入れない社会福祉理論は無意味なのである。このように考えてきた時、社会福祉が、「実践」と「研究」の往復運動、相互影響が特に必要になってくることがわかるだろう。(注1)

3.社会福祉の目的

 すでにあげたように、「社会福祉の目的」を一言で表すことは難しい。より「普遍的理論」に近い地点からコメントしようとするか、より「現実」に近い地点からコメントするかによっても違うし、「個別の援助」に焦点を当てるか、「社会全体の政策」に焦点を当てるかによっても違うことになるだろう。
 ひとまずここでは、論を進めるために社会福祉の目的を、「社会生活上の主体としての個人の幸福を目指すこと」としておこう。
 ポイントとして強調したい点は、人間は「社会的存在」であり、「自分の人生」の主人公であることを押さえた上で、「最大多数の最大幸福」ではなく、「他とは代えられないその人自身の幸福」を目指すということである。この、いくつかのポイントについて確認していこう。
 第1に社会福祉は、「社会的存在としての人間」に関わるというポイントを忘れてはいけない。例えば、交通事故で大怪我をした人がいるとする。怪我を治療するのは「医師」の仕事だろう。また、下肢麻痺が残ったとして、少しでも歩けるように訓練するのはリハビリテーションの専門家の仕事だろう。医師が頑張ってAさんの命を取り留めたとしても、その後の訓練・リハビリテーションが、うまく行くかどうかで、車椅子で移動できるかベットに寝たままの人生になるかの差が出る。
 それに対して、社会福祉は障害者となったAさんが、社会で生きていけるようにしていくのが仕事の中心の一つなのである。例えば、いくら車椅子での自力移動ができるように訓練が成功したとしても、入院中に失職し、家はエレベーターのないアパートの3階ということならば、退院後は、車椅子を使うこともできず、家の中にこもりきりということになるだろう。ならば、転居を考え、再就職先として適切な職場を探すことが必要となってくるだろう。
それ以前に、まず本人が自ら地域に対して、家族に対して心を開き、また積極的に社会に関わっていけるように励ましていく作業も必要だろう。
 このように、我々社会福祉に関わる者は、絶えず「個人」を「社会」との関わりの中に位置づけていこうとする。つまり、家族、地域、職場、施設をはじめとする社会での現実の生活を支援していこうとする視点を大切にするのである
 第2に、社会福祉は「人間」が自分の人生の「主人公」であるということを大切にする。このことは、我々が、忘れがちなポイントである。つい、社会福祉のサービスを提供する者が、援助の主人公のような気になってしまう。確かに、「手術をする」のは医師であり、患者は「受け身」だろう。施設で老人を「介護する」のは寮母であって、お年寄りはただじっとしているだけかも知れない。しかし、ここで間違ってならないのは、それでも、「手術」
や「介護」は医師や寮母のために行われるのではないと言うことである。あくまでも、お年寄りや入院患者は、自分の人生をもっと素敵に生きるために、医療や介護を利用するのである。いくら、じっと介護を受けているからと言って、寮母の側が介護の主役だと勘違いしてはいけない。あくまでも、その人が自分の人生をより良く生きるお手伝いを援助者はしているのである。
 我々は、援助主体と援助対象という言葉を使いがちであるが、注意しなければならない。確かに、「援助」を今しているのは、寮母であり、指導員であるが、だからといって援助を受けている側が、「対象」な訳ではない。どのような言葉を使うべきかは別としても、「対象者」を「援助してやる」という視点ではなく、「生活の主体」である人の、よりよい生活をお手伝いしているという視点が大切にされなければならないのである。(注2)
 第3に、「最大多数の最大幸福」という言葉のもつ意味についても検討しておきたい。(注3) なぜ、最大多数の最大幸福ではいけないのだろうか。このことは、社会福祉に関わる者としては大切にしておきたいポイントである。「最大多数の最大幸福」という考え方は、「一人でも多くの人に、少しでも多くの幸せを」ということだろう。このことは、一般的に承認されている考え方である。立場も意見も違う人を全て同時に満足させることは(理想であったとしても)どうせできないのだから、「一人でも多く、少しでも多く」となるのはある意味では当然だろう。例えば、学校教育で40人クラスの児童全員が勉強についてこれる授業が理想ではあろうが、現実には不可能である。ならば、10人よりも15人、15人よりも20人と少しでも多くの人が分かる授業を目指すのが当然であろう。
 しかしこの考え方は、裏返せば「少数者の不幸は(もちろん望ましくはないが)やむを得ない」という考え方につながりうるのである。100人の内、40人の幸せよりは50人の幸せを、50人よりは60人の幸せを....という考え方は、100番目の人の幸せをめざしはするが、一番後回しにせざるを得ないのである。
 それに対して、社会福祉の論理は、まさに100番目の人をも、1番目の人とも同じく考え一人の「人」として大切にしていこうとするのである。では、逆に「困っている人を大切にするために残りの人は多少の我慢をしよう」という考え方が「社会福祉」の思想なのだろうか。例えば、障害者用のトイレを一つ作るためには、一般トイレよりもコストもスペースもずっと余計にかかるだろう。しかも、おそらく利用者はずっと少ないだろう。それでも、障害者用のトイレを公衆トイレに作るのは「困っている人への配慮、我慢」なのだろうか。
 実際「社会福祉」のことをこのようにとらえる人がいるが、それは間違っている。そのことを理解するためには、ノーマライゼションの思想を理解する必要がある。

4.ノーマライゼ−ションの思想

 障害者用のトイレが、障害者「専用」のトイレなのだとしたら、確かに「困っている人のための配慮」かも知れない。残りの人には必要ない配慮になるだろうから。しかし、障害者「優先」トイレ=障害をもつ人も楽に使えるトイレ と考えたならどうなるだろう。
 確かに、障害をもつ人にとっての配慮でもあるが、高齢者や、病気や事故で一時的に心身の機能が弱っている人、小さな子ども...他の多くの人にとっても、使いやすいトイレということになるのではないだろうか。また、元気な大人にとっても決して不便な物ではないはずである。
 つまり、障害者用のトイレを作るということは、障害者にも使いやすいトイレ、すなわち全ての人にとって使いやすいトイレを作るという考え方の実現なのである。この発想法を広げるならば、社会福祉という考え方が見えてくるだろう。
 「困っていない私」が、「困っている他人」を助けてあげることが、社会福祉なのではなく、ハンディの大きな人にとって住みやすい社会を目指すということは、他の全ての人にとっても住み易い社会の実現につながるのだという信念をもつことが大切になってくるのである。
 ノーマライゼーションという考え方は「高齢者、児童、障害者をはじめとする、どのようなハンディをもった人をも特別扱いせず、社会における普通の人として接していくこと、またそのための条件を整備していくこと」であり、「障害者のいない健常者だけからなる社会は一見強そうに見えるが、実はもろくて弱い社会である」という国際障害者年行動計画の理念にもつながるものなのである。

5.社会福祉の体系

 社会福祉の目的は、一人一人の「人間」の幸せを考えることであり、個人の幸福追求が結果的に社会全体の幸福につながるのだという考え方を説明した。では、この社会福祉の目的を実現するためにはどのような具体的な行動が可能になってくるのだろう。

  1)社会保険制度
 現代の人間の生活を考えるとき、どうしても必要不可欠なものは、第一に「経済的保障」だろう。失業、定年、事故、等様々な理由で収入が極端に減少したとき、人は憲法25条に保障する「健康で文化的な最低限度の生活」を営むことができなくなる。そこで、「年金保険制度」を中心とした経済的援助のシステムが必要となってくるのである。
 第二には、健康の問題である。心身の健康は全ての人間にとって確保されるべきものである。医療といえども原則的には「経済保障」があれば買えるものではあるが、医療は大変高額である上に、地域による偏在や医療技術の質の問題など、お金さえあれば何とかなるというものでもない。その意味で、「医療保険制度」が別途必要になってくるのである。
これらを「社会保険制度」と呼び、何らかの形で国民は社会保険に加入することとなっている。(注4)

  2)社会福祉制度
 上であげた、経済的保障と医療保障のシステムは、全ての国民に平等に保障されなければならないものである。そのため国民は自ら社会保険料を納め、将来に備えている。
 しかし、年金保険、医療保険が全国民に保障されたからといって、それだけで全ての人の「文化的最低限度の生活」は、保障できるわけではない。例えば、経済的に困っているという状況は同じでも、高齢で独居の人の場合と、交通事故で障害者となった青年の場合と、乳児の場合とでは必要な配慮が異なってくるだろう。高齢独居の家庭には、年金等の給付に加えてホームヘルパーの派遣などが必要になってくるかも知れない。事故による障害者の場合には、まずは病院等におけるリハビリテーションが必要だろうし、その後は求職活動が大切
になってくるかも知れない。
 このように考えてきたとき、「社会福祉事業」といわれる制度が必要になってくるのである。老人福祉、児童福祉、障害児・者福祉などと言われる分野がそれに当たるだろう。各分野では、援助を受けることとなる人々のもつ、ハンディの特性に合わせた細かなサービスのシステム化が図られている。具体的には、本書の他章に詳しい。

  3)ソーシャルワーク
 国民全体に対しての社会保険制度と、特定の援助を必要とする人々のための社会福祉制度の二つが整えば、社会福祉の目的である「個人の幸せ」は達成できるだろうか。年金が支給され、ホームヘルプサービスやデイケア、また老人ホーム等の福祉事業も利用できるように整備されれば、必ず高齢者は幸せになれるだろうか。残念ながらそうはいかない。
 例えば、老人福祉法という法律は、寝たきりや痴呆をはじめとする援助の必要な高齢者に対して、特別養護老人ホームという施設を設置し、生活指導員や寮母という援助者をおくことを定める。しかし、指導員や寮母がどのように援助を必要とする高齢者を理解し、関わるかというポイントについては、法律に定めることはできないのである。この部分を受け持つ考え方をソーシャルワーク=社会福祉援助技術というのである。
 食事介助の必要な高齢者、障害者という側面では「同一のニード」をもつ同室の2人が、実は「違う性格」であり、今違うことを「感じている」という点を意識して援助は実施していかなければならないのである。
 具体的にソーシャルワークの中でも何について詳しく学ぶのか、またどの程度深く身につけるべきなのかということは、実際に就く現場や職種によって違うだろう。しかし、社会福祉に関連する仕事に就こうとする者は、社会福祉援助の一通りは知っておくことは求められるのである。
 詳細は、第6章で触れることにする。


注1.このように、「社会福祉」という学問が実践との動的な交流をもつため、論者によっ
て多少指す意味の内容にぶれがあることはやむを得ないのである。これは、他の「援助学」
においても同様である。例えば、医学−医療の世界においても、「死」を「心死」の段階と
するのか、「脳死」の段階とするのかをはじめとして、インフォームドコンセントの問題、
臓器移植の問題など、大変重要で本質的ないくつもの課題においてぶれが生じている。

注2.援助を必要とする人を「援助対象」とするのではなく、「生活主体」と見る考え方は
重要である。実際、援助を受ける人(=クライエント)のことを「対象者」と呼ばずに、
「利用者」「入居者」などと呼ぶことが増えてきている。
 ただ、ここで注意しなければならないのは、クライエントが利用者なら、「援助者」(=
ワーカー)は何者かという問題である。クライエントが自らの生活のために福祉サービスを
利用するのは確かであるが、それではワーカーはクライエントの求めるままに、ただサービ
スを提供しさえすれば良いのだろうか。
 確かにこのような考え方もあるが、もう一つの考え方=援助論として、援助関係における
ワーカーとクライエントの相互主体性という視点の重要性について強調しておきたい。
 この問題については、第2部第1章で詳しく論じることにする。

注3.「最大多数の最大幸福」という言葉は、
19世紀イギリスの主要な思想となった「功利主義」の考え方を代表的にしめす考え方であ
る。功利主義の提唱者ベンサムによって主張された。
「ベンサムは量的な快楽計算を考え,『最大多数の最大幸福』の原理によって,個人の幸福
と社会の幸福を調和させようとした。」(「」内岩波国語辞典5版・CDROM版)

注4.社会保険は、ここであげた「医療保険」「年金保険」以外に、「雇用保険」「業務災
害保障保険」があり、4制度ある。

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