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編集段階で、多少変わったと思います。根本的な内容の変更はなかったですが、一部の変更や、小見出しを入れるなど、また注を本文中にもちこむなどいつものより、形式上の変更は多いと思います。
つきあわせるべきですが、フォローはさぼらして下さい。


『はじめて学ぶ社会福祉』第1巻
「社会福祉概論」
第6章 社会福祉の援助       

1.社会福祉援助とソーシャルワーク

 社会福祉の理念を実現するためには、行政や福祉専門職者、さらには福祉問題を抱える当事者や関係者をはじめ地域住民等による具体的な福祉問題解決のための努力が必要になってくる。
 本章ではその中でも、社会福祉実践の中核を担うことになる社会福祉専門職者にとって知っておかねばならない、社会福祉の援助について概観することにしたい。
 ただし、社会福祉援助の内容を考えると一言で言っても、どのような視点から論じるかによって、その指し示す内容は変わってくる。
 たとえば、「ソーシャルワーク」「社会福祉援助技術」等と呼ばれるものを福祉援助の具体的内容として指す場合と、「介護」「保育」「養護」等と言ったものをイメージする場合では、相当その内容が異なってくることになる。

 1)実践分野別の社会福祉援助
 社会福祉援助を考えるとき、相対的に独立したいくつかの体系が存在する。それは概ね、援助を行う場に規定されており、思いつくままあげても、児童分野における「保育」「養護」、障害児・者分野における「療護」「療育」、老人分野を主として横断的に用いられる「介護」等々がある。
 これらは、原理的・技術的に必ずしも明確な相違点をもっているわけではなく、養護施設での実践を「養護」、保育所での実践を「保育」と呼んでいる側面がないわけではない。
 つまり、保育とは違う養護、養護とは異なる保育を理論的に形成してきたというより、各施設等で援助を行うときに必要とされた技術や知識の集積が固有の名前で呼ばれるようになったとも言えるだろう。
 では、これらの用語が全く固有、専門的な意味をもたないのかと言えばそうではない。例えば、保育内容、保育原理、養護内容、養護原理、介護概論、介護技術等といった養成カリキュラム、テキストがあることからも、ある程度の専門性、独立性をもった体系が既に築き上げられていると考えられるのである。ただ、それは強く排他性をもった固有の援助技術と言うよりは、基本的には社会福祉実践としての共通性を強くもちながら各分野の特徴に応じたユニークさを付加的にもつ実践と言うべきものだと考えられる。

 2)ソーシャルワーク

 「ソーシャルワーク」とは、社会福祉援助専門職に対する国際的な名称である。それに対して「社会福祉援助技術」という用語は、1987年の「社会福祉士及び介護福祉士法」の制定以降、日本で使われるようになった用語でありそれ以前に用例は殆ど見られない。前者は専門職としての福祉援助の全体的な体系を意味するのに対して、後者は狭義にとれば、具体的な援助の技術をさすことになる。つまりソーシャルワークは、個々の技術そのものであるというよりも、技術を含む(または技術を行使する)援助の体系というべきものなのである。
 つまり、ソーシャルワークとは社会福祉援助技術を行使する専門職とも言えるだろう。このように、本来は両者の概念の異同についての検討も必要なのであるが、本章では特に断らない限り、ソーシャルワークと社会福祉援助技術を、概ね同義として用いることとする。
 既に述べた実践分野別の社会福祉援助との関係については、多様な見解がある。ここでは、社会福祉実践の分野を越えて、共通する社会福祉目的達成のための援助の体系をソーシャルワークと呼び、ソーシャルワークを前提としながらも、個々の実践分野に必要な教育や看護等の隣接分野の知識や技術まで一定組み込んで形成された福祉実践の体系を養護や介護、保育等と呼ぶことにしたい。(注1)


2.専門職成立の条件

 ソーシャルワークが援助の専門職であるためには、一定の条件を満たす必要がある。
 例えば、グリーンウッドの1.体系的理論、2.専門的権威、3.コミュニティの承認、4.倫理綱領、5.専門的文化を条件とする見解や、京極高宣氏の「職業的倫理」「職業的専門知識」「職業的技術」の3構造とする見解などがある。(注2)
 また、ILOの報告書に依れば、看護職員が専門職であるための条件として、「必要な知識と技術」をもち、そのための「資格」があり、「公認された地位」が確保され、「看護計画」の立案過程への参加が求められているという。(注3)
 『カウンセリング辞典』(国分康孝編)では、「プロフェッション」の項目で、「高度の学歴と訓練」、「優れた専門技能(有資格)」、「社会的威信」、「厳しい奉仕性」、「倫理性(価値志向性)」があげられている。(誠信書房 1990年)

 このように、説明の仕方は多様であるが、専門職としての「知識」と「技術」の体系をもつことはまず重要になってくるだろう。例えば、医師も弁護士もそれぞれに固有の知識と技術をもつのである。それと同様に、福祉援助職も当然業務遂行にあたっての専門的知識や技術の習得を必要とする。
 では、専門知識と技術の体系さえもてば、援助専門職といえるだろうか。医学的知識をもち、投薬や手術についての技術をもてば、「医師」かと言えば、そうではない。その知識や技術をどのように何のために用いるのかということが問題になるのである。「専門職倫理」である。倫理というと道徳的、通俗的なイメージにもとられうるが、専門家が、援助行動をとるための「行動規範」となるものといって良いだろう。医学的知識と技術は、極端なことを言えば「相手を傷つけること」にも使いうるし、弁護士の法律上の知識や技術は、「人をだます」ことにも使いうる。知識、技術を「医療」のために、「福祉」のために目的的に行使するようにするのが、「専門職倫理」といえるだろう。
 その意味で、援助職にとって自分たちの守るべき行動規範の集成である、「倫理綱領」は大切なものになってくるのであり、弁護士、看護婦、ソーシャルワーカー等々各種専門職団体が独自の倫理綱領をもっている。
 そして、これらの「倫理」「知識」「技術」をささえ発展させるために、「資格制度」や「教育・訓練制度」が必要とされ、その結果としての「社会」による承認、信頼が形成されることになるのである。

3.援助関係における「主体性」

 1)援助を受ける者の主体性
 ソーシャルワーク関係は、福祉問題を抱え、援助を必要としている人(=クライエント)に対してワーカーが必要な援助を行う、「援助関係」が中心である。そして、この「援助関係」を考えるにあたっては、誰が援助の「主体」で誰が援助の「対象」かという、問題がでてくる。これは、プロローグでも簡単に触れたが大切な問題であるので、もう一度考えることにしたい。
 「援助」という行為を誰が行うのかという点に焦点を当てたとき、ソーシャルワーカーや医師等援助者が主体で、クライエントが被援助者=援助の対象ということになる。医療における「手術」をとりあげても、手術を実施する医師が援助の行為者=援助主体なのであって、患者は援助の受け手ということになる。施設における「介護」でいえば、寮母等の介護者が主体ということになる。面接室での相談業務をとらえれば、相談という援助を行なっている
のはワーカーである。
 では、援助者が「主体」で被援助者が「対象」という一元的な図式でソーシャルワーク関係を考えることができるのだろうか。ここで、クライエントを援助関係における「主体」とみる思想が必要となってくるのであるのである。
 例えば特別養護老人ホームの入所者は、確かに介護を受ける存在である。その意味では援助というワーカーの行為の対象になるだろう。しかし、施設の入所者は寮母の介護を受けるために生きているのではない。自らの人生をより良いものとするために、施設という場で介護サービスを利用していると考えるべきなのである。また病院の患者は、医師の「医療」行為の対象物として、生きているのではない。患者は自らの人生のために医療を利用しているのである。
 つまり、援助関係における対象者としての側面をもつクライエントが、実は自らの生活における主体であるという点が強調されなければならないのである。援助関係だけを切り離してみれば、クライエントは対象者に見えるが、実はクライエントはその援助関係自体を、自らの生活のために主体的に利用しているのである。つまり、「福祉援助の対象者」ではなく、「福祉サービスの利用者」なのである。
 このように考えたとき、援助関係におけるクライエントの自己決定や援助関係への主体的関与が大変重要になってくる。従来のソーシャルワーク援助はともすれば、「ワーカーである私がクライエントの彼に何をしてやれるか」という援助者側の視点で考えられがちであった。それに対して、「専門家に助けてもらうのではなく、さまざまな生活上の問題を抱えている当事者が、専門家の援助を必要に応じて主体的に利用しようではないか。」といったク
ライエントの生活者としての側面、当事者性が強調された考え方は大切なものになってくる。

 2)援助を行う者の主体性
 クライエントは、援助関係における単なる対象ではないということを強調してきた。では、逆にワーカーは何者なのであろうか。クライエントが主体ならば、ワーカーは利用されるべき手段・道具なのだろうか。
 クライエントが福祉問題を解決していくためには、ソーシャルワーカーや福祉施設、ホームヘルパー等の公的サービス、また、ボランティアや近隣の人々、家族等々の援助といったインフォーマルなサポートを受けることが必要になってくる。これらのクライエントの抱える問題を解決するにあたって利用可能な人や物等を社会資源と呼ぶ。援助論においては既に述べてきたことからも分かるように、公私の社会資源をクライエントが主体的に利用するという考え方が大切なのである。
 例えば、医療において、確かにクライエントは自分の意志と関係なく一方的に治療される「対象者」としての立場からは脱する必要がある。その意味でも「インフォームドコンセント」の概念が医療実践の世界でも強調されるようになってきているのである。
 しかし、援助者をクライエントにとっての「利用できる資源」と、単純にとらえることには問題がある。例えば、クライエントが望むことならば、ワーカーは自動的に満たすべきなのだろうか。本人が死にたいと言えば、自動的に「死」への処方をすることが、医療で、依頼人が望むことなら、訴訟相手をだましてでも希望に添うことが弁護士の仕事だろうか。もしワーカーが、クライエントにとって単なる利用すべき道具にすぎないのならば、そういうことになる。しかし、当然のことながらそのようなことはあり得ない。最終的に自分の人生は本人が選び取るしかないことを大前提とした上で、「医師」はそれでも、クライエントの健康を回復する方法はないか、少しでも障害が残らない方法はないかと、最善を尽くすだろう。「本人の意思」が、無条件に自動的に尊重されるならば、援助者側には技術は必要であっても、判断は必要ないことになる。
 しかし、実際には医師には医師としての、弁護士には弁護士としての、ソーシャルワーカーにはソーシャルワーカーとしての行動規範があり、それに基づいてクライエントに対して、アドバイスをし、願いを伝えていくことが必要なのである。その上で、クライエントは自己決定して行くべきなのである。どちらが利用し利用されるのかといった一方的な考え方でなく、ワーカーとクライエントの相互主体という関係を築いていく必要があるのである。
 ワーカーを援助関係の一方の主体とするこの考え方は、クライエントの幸福が援助行為における最終的な目標であることを確認した上では、大変重要なものになってくる。クライエントは、社会の偏見や差別、また一方的な要求などを前にして、身動きができなくなってしまう場面がままある。その様なときに、ワーカーはクライエントの側に立ち、社会に対して様々な要求をしていったり、誤解を解いていくといった作業をしなければならないことがある。そのためには、ワーカーはクライエントが利用できる、単なる資源の作り手・紹介者ではなく、援助関係における一方の主体としての立場が必要になってくるのである。
 ワーカーは自らの援助専門職としての自立性を保つことにより、真の意味でクライエントの立場に立って援助をすることが可能になることを強調しておきたい。

4.援助の原則

 ソーシャルワークを行使するに当たっては、福祉援助者が心得ておかねばならない原則がいくつかある。例えば、ケースワークの原則として、バイスティックは1.個別化2.意図的な感情表現3.統制された情緒関与4.受容5.非審判的態度6.クライエントの自己決定の尊重7.秘密保持の7つをあげている。
 また、グループワークの原則としては、コノプカの原則やトレッカーの原則が有名である。
 ここでは、社会福祉援助において重要な原則についていくつか検討していくことにしたい。
 
 1)自己覚知

 「自己覚知」とは、「援助者が自分の個人的な性格や価値観の偏りを知る」ことである。
例えば、保育所で子どもが泥だらけで遊んでいるとき「汚れるからやめなさい!」と保母が注意するとき、それは何故だろう。泥遊びは本当に悪いことなのだろうか。また、老人ホームで高齢者同士が魅力を感じ、結婚したいと相談してきたときあなたは、どう感じるだろう。
戸惑い、できれば諦めさせたいと思うかも知れないが、それはなぜだろう。
 服が汚れるのが「客観的に悪だから」私は叱るのだろうか。高齢者の恋愛は「客観的に悪だから」私は、眉をひそめるのだろうか。そうではない。ある意味では、子どもの発達にとっては「泥遊び」は必要でこそあれ、悪ではない。また、高齢者が異性に関心をもつことも、その人の「生き生きとした人生」を考えたとき決して禁止すべきこととは断言できないはずである。
 つまり、「私が、泥だらけになるのはやめて欲しい」のであり、「私が、80歳を越えた年齢の人が異性に興味をもっているとは思いたくない」のである。このことに気づいたとき、ワーカーはクライエントの言動を悪いこととして批判しなくて済むようになる。
 だからといって、自己覚知した「私」が子どものどろんこ遊びを「イヤ」なのに、我慢して「誉めろ」というのではない。施設内で、入居者の2人が傍目を構わずスキンシップするのを、どんどん「推奨しろ」というのではない。「悪いこと」だから止めるのではなく、「私はやめて欲しい」から止めるのだということを、「自己覚知」した上で、相手に関われば良いのである。「きれい好き」な私や、「時間に遅れることが嫌い」な私や、「お節介が嫌い」な私や、「負けず嫌い」な私や...人には、それぞれ「自分の性格」があるが、それは「良い悪い」の対象ではないのである。
 誰でも、親や教師、クラブや職場の先輩・上司などから、理不尽なことで批判されて戸惑ったことが一度や二度はあるだろう。これは、相手が自分の価値観を「客観的に正しいこと」として、押しつけてきた場合が大抵である。福祉援助に関わる我々は、このような間違いはおかしてはいけない。もちろん、やめて欲しいことはやめて欲しいと言えばよいのだが、それは「悪いこと」だから禁止するのではなく、「私はそんなことして欲しくない」のである。
そのことを、しっかり意識した上で、クライエントと関わることができたとき、「自分の価値観で相手を一方的に批判する」ことは、しなくてすむのである。

 2)個別化
これは、対人援助において最も基本となる姿勢である。人間は誰でも一人の人間として扱われたいというニードをもつ。それに対応しようとするものが個別化の原則なのである。
 例えば、養護施設で3人の子供が一緒に無断外泊をしたとしよう。施設長は、3人を一カ所に集めて「君達は、何ということをしたんだ!」と叱る。そして、共同で悪いことをしたんだからと3人に同じペナルティを与えることになるだろう。
 確かに、彼らは一緒になって規則を破り、他人に心配をかけた。このことは間違いない。
 しかし、その行動をした時の、彼らの思いは、3人が3人とも同じなのだろうか?例えば、A君は前日に他の子供がした「盗み」の犯人ではないかと指導員に疑われてショックを受けていた。B君は、毎週末にお父さんが、施設に訪ねてくれていたのが、この1ヶ月全く尋ねてきてくれなくなったことで落ち着かない気分だった。C君は、高校進学を希望しているが、学力的に自信がなく、又私立に行くには親に経済的負担をかけられないと悩んでいた。丁度その日、進路面談の日だったので逃げてしまった。
 同じ行動をしたからといって一人ひとりの心まで一緒なわけではないのである。だとすれば、3人をまとめて叱るだけでは効果的でないことは明らかだろう。A君は、誤解をした指導員との話し合いが必要になってくる。B君対策としては、お父さんが最近来てくれなくなった理由を確かめ本人に知らせ、場合によってはもっと来てくれるように父親に促すことも必要になってくるかも知れない。C君については、学力に応じた学校への進学が可能であることを情報提供することが必要になるかもしれない。
 もちろん、これらの個別の対応をするためには、先ず一人ひとりとじっくりと話をしなければならないことは言うまでもない。
 このように、どれだけ目の前にいるクライエントの気持ちや行動を、他人とは違う彼自身のものとして受けとめていけるかが、問題解決の糸口を見つけることにつながるのである。

 3)クライエントの言動の理解
人間の行動や言葉、態度等には、全てに意味があるという前提からこの原則は出てくる。
 クライエントが問題行動をとったとき、我々はそれを無視したり、怒ったりはするが「原因を考える」ことはしない場合が多い。
  例えば、痴呆のお年寄りが理由もなく突然大きな声をあげて怒りだしたとする。施設職員である私に直接思い当たる理由がないとき、我々は「またか、あの人は痴呆だからな」というように聞き流してしまう。しかし、いくら突然の行動に見えても、それはワーカーから見たときに「理由もなく..」なのであって、クライエントの側には何らかの理由がある筈なのである。ワーカーが無意識に言った、何気ない言葉が彼を傷つけたのかも知れないし、前日に起こした他のお年寄りとのいざこざがずっと気持ちを重くしていたのかも知れない。このように、あくまでもクライエントの言動の意味を考えていこうとすることが、援助においては大事になってくるのである。
 特に、否定的な感情は表現されにくいため変形された形で出ることが多いので注意が必要である。クライエントが何かワーカーに不満を持ったからといって、「いやです」「やめて下さい」というような表現をとることは難しい。そこで、クライエントは、無意識の間に問題行動という形で自らの感情を表現してしまうことがあるのである。
 そして、それらの行動がもつ意味(=不満や不安)にワーカーは気づかないことが多いのである。
 例えば、ワーカーがクライエントのしたことを叱ったときに、本当はいろいろ反論したいが怒られるのが恐くてクライエントは黙っていたとする。それをワーカーは、納得したから黙っているのだと思ってしまう、といったことがしばしば起こるのである。
 これへの対応としては、「言語的」表現だけでなく、クライエントが話し合いの最中に、視線を外したり、あくびをしたり、身体を揺すったりするといった「非言語的」な表現に注目していくことも有効になってくるのである。

 4)受 容
 人間には誰でも「自分の気持ちを分かって欲しい」という思いがある。それに対応していこうとする原則である。ワーカーはクライエントの感情や行動・言葉等に秘められた真の意味に対して理解を示していくことが重要になってくるのである。
 しかし、社会的に良くないことをしたクライエントを「受容しろ」といわれる場合どうだろう。例えば「児童虐待」をしたクライエントを「受容」するというのはどういうことなのだろう?
 ここで、大事になってくるのは、「受容」と「許容」の違いである。「受容」とは、クライエントの「思い」を受け入れることである。彼がそのような問題行動をとらざるを得なかった背景への理解である。それに対して、「許容」は、彼の「行動」そのものを正当化していくことである。
 児童虐待という行動が絶対に許されないのは間違いない。従って「許容」する必要はなく、叱るべきであろう。しかし、3)の原則からも分かるように、意味もなく我が子を虐待したのではないはずである。例えば、夫婦関係や親戚関係、また子育て上の悩み等が、彼女を「虐待」行動に走らせたのかも知れない。その「思い」を「受容」することはできるはずなのである。

 5)秘密保持
 これは、全ての援助専門職に共通の原則である。福祉職につく者は、クライエントやその家族の様々な秘密に接することが多い。それを、無神経に他人に対して漏らすことが許されないことは当然である。クライエントの人権を尊重するという意味からも、専門的信頼関係を保つという意味からも、秘密保持は最も重要な原則であろう。
 ただし、これは処遇向上のために、職員会議等で議論をしたりすることまでも禁止するものではない。福祉の向上のためには、細心の注意を払った上でクライエントについて専門家間で話題にすることは許される。


5.ソーシャルワークの種類

 1)ケースワーク

 人間は、究極的に他人とは異なる独自の存在なのだという認識に立つとき「ケースワーク」は先ず必要な方法となる。「ケース」という言葉には個々の・個別の・事例等という意味があり、ケースワークとは一人一人のクライエント相手に援助をしていくことである。社会福祉士及び介護福祉士養成では、個別援助技術と呼ばれる。
 個別化のところであげたように、人間の「個別性」に焦点を当てて一人のワーカーがクライエントと一対一で、じっくりと関わっていく援助形態をケースワークという。(注4)

 ケースワークを専門に行なう場としては、福祉事務所や児童相談所等の機関における相談面接等があげられる。その他にも広くとらえるならば、保育所における自由保育時間中に保母が子供一人ひとりと関わることや、老人ホームで寮母がお年寄りのおしめを交換しながら悩みを聞くことも全てケースワーク実践と呼んで良かろう。


 2)グループワーク

 人間が他人とは違う存在であるという点に焦点を当てたとき、ケースワークという方法が考えられる。しかし、同時に人間は家族、学校、職場といった社会集団の中で影響を受け育っていることも事実である。そのことに焦点を当てたときグループワークという方法が出てくる。
お互いに相手の顔と名前が一致することが可能な程度の小集団において、様々なプログラム活動を行い、それを通してメンバーの抱える問題を解決し成長していこうとするものがグループワークである。集団援助技術ともいう。 
 ケースワークにおいては、一対一のワーカー対クライエント関係が中心となる。もちろんクライエントの家族や友人のことは、話し合いにおける「話題」になることはあるが、ケースワークの実践場面において展開される人間関係はあくまでもワーカーとクライエントの関係である。一元的で密度の濃い専門職的人間関係とでも言えよう。
 もちろんグループワークにおいても確かにワーカー対クライエント関係はある。ただし、それはワーカー一人に対してメンバーが多数であり、人間関係の密度においてはケースワークよりはるかに薄い。一人ひとりのクライエントとどれだけ深い関係を作れるかという意味においては、グループワークはケースワークにはかなわないのである。
 しかしグループワークには、それに加えてメンバー同士の人間関係がある。つまり、メンバー同士による励まし合いや競争等の相互作用が働くことがグループワークの大きな特徴なのである。
 例えば、交通事故に遭い、障害をもってしまった若者がいるとする。彼がケースワーカーにいくら励まされても「先生は、ああおっしゃるけれど僕はもうだめだ」といった思いから脱することは容易ではない。
 それに対して、中途障害者の仲間の会に参加した時、自分と同じか、それ以上に重い障害をもつ仲間の体験談を聞き、頑張っている姿を見ることで、「自分も頑張ろう」といった気持ちを強くすることが出来る。
 つまり、グループワークでは個々のクライエントを大事にしていくことも当然ながら、メンバー同士の相互作用をどれだけ積極的に促していけるかが、ワーカーの重要な仕事になるのである。
 最後に、グループワークを行なうにあたって、注意しておくべき点を指摘しておきたい。
 それは、「相互作用」の重要性の確認である。何人かが一カ所に集まっていればグループワークになるというわけではない。メンバー同士が自由に相互作用を起こしてこそ、励まし合いや競い合いが生じ、メンバーの成長が促されるのである。ワーカーがクライエント達を前にしていろいろと指図し、クライエントは言われたことを黙々と実行しているだけ...では、ケースワークの密度の薄いものといったレベルを越えることはできず、グループワークとはいえないのである。

 3)コミュニティワーク

 人は誰でも、地域社会の中で影響を与え合いながら生きている。ケースワーク、グループワークが、それぞれクライエント個人や、集団に焦点を当てるものであったのに対して、コミュニティワークは、地域に焦点を当てていこうとするものである。
 ケースワークやグループワークがいかに巧みに成功したとしても、クライエントをとりまく地域の状況が悪ければ、問題は解決しない場合が多い。例えば、施設が作られるとなると多くの場合地域から反対運動が起こり、実際施設開所が断念されるということさえ時にある。
 「福祉は他人事」という感覚が、いかに地域住民の間に根強いかということの証明と言えよう。いくら素晴らしい保育をし、介護をしたとしても、施設から一歩外に出たら「白い目でみられる」というような状況では話にならない。また、高齢者夫婦や障害児を持つ家庭等の場合も、「地域」の理解なしには、孤立した形での生活にならざるを得ないだろう。
 このように考えてきたとき、ケースワーク、グループワークだけでは、クライエントの福祉問題を完全に解決することは困難なのである。そこで、地域と関わる方法・技術が必要になってくる。つまり、地域に共通する福祉課題を、住民自らが解決していくように促すことが、コミュニティワークなのである。「福祉士」養成においては、地域援助技術と呼んでいる。
 コミュニティワークは、一般的に1.問題の明確化 2.対策計画の設定 3.対策行動の展開 4.評価 といった段階を経る。(注5)
 以下、このプロセスに沿って例を挙げて簡単に説明することとする。
 1. 例えば、地域の独居老人が誰にも知られずに在宅のまま病死していたという事件があったとする。このこと自体は、地域課題と言うよりは、個別の老人福祉問題と言うべきかもしれない。しかし、これを、「たまたま」起こった不幸な事件として処理するのでなく、二度とこのような事件を起こさないようにするにはどうしたら良いかと考えた時に、コミュニティワークが始まる。
 2. どのようにすれば、問題解決をできるか考える中で、独居老人や高齢者世帯と地域社会との交流を図ることを目標とする。具体的には、「配食サービス」をすることになり、婦人会やボランティアグループ等に参加を呼びかけ計画をたてる。
 3. 実際に役割分担も済み、週2度の配食を実施する。
 4. その後一定期間を過ぎてから、関係者が集まり問題点がないか話し合い、またサービスを受けているお年寄りの要望等も聞き、プログラムを修正する。
 現実には、もっと複雑なプロセスを経るものであるが、地域の多くの人が関わり、地域の問題を解決していこうとする点では、現実の他の事例も似たようなプロセスを経るといえよう。
 具体的な、コミュニティワークの実践の場としては社会福祉協議会や、ボランティア協会、その他の各地域に設置されている公私の福祉を目標とするセンター的な団体等があげられる。
また、コミュニティワークの専門機関ではないが、各種施設が地域との交流を目指して積極的な行動をとるときこれも、コミュニティワークといえるだろう。

4)その他の方法

 以上あげた3方法以外にもソーシャル・アクション、ソーシャル・ウェルフェア・リサーチ、ソーシャル・ウェルフェア・アドミニストレーション、ソーシャルプランニングの4つがソーシャルワークの種類としてあげられることが多い。

ソーシャル・アクションは、社会制度に対して直接働きかけていくことで、福祉問題の根本的解決を図ろうとする運動である。
クライエント個人に働きかけ、また地域住民の理解・共感を高めていったとしても、社会制度側に福祉問題の原因があるときには問題解決にはならない。このような場合には、社会制度側に働きかけていくことでクライエントの問題の解決を図ることが必要になってくるのである。
 行政が地下鉄をつくるときに、エレベーターの設置を同時に求める運動が障害者の当事者団体を中心に積極的に行なわれる事例や、地域内の施設作り推進運動等も、その例である。
また、さまざまな社会保障裁判等もソーシャル・アクションの典型例としてあげられる。
 最近の例で言えば血液製剤との関係におけるエイズ訴訟などもソーシャルアクションとしての性格を強くもつものだろう。犠牲者となった彼らが訴訟を起こすことで、、国や製薬会社相手の責任が問われ、結果的に二度と人災レベルの薬害が起こらないようにと訴えていく効果をもちうるのである。

 ソーシャル・ウェルフェア・リサーチは、社会福祉調査と訳される。福祉問題の原因や、実態、解決法等を見つけだすために行なわれる調査のことである。従って社会学や統計学の調査の手法を応用するのであるが、「福祉問題」の解決のための情報収集が目標であるという点が特徴である。
 調査の方法としては、多くの人に回答してもらうことによって、数量的に分析しようとする「統計調査」法と、一つ一つの事例を多角的に詳細に検討していこうとする「事例研究」法に大きく分けることができる。
 社会福祉調査は、それ自体はあくまでも 「調査」なのであり福祉実践そのものではない。
しかし、他のソーシャルワークを実践するための有力な情報源となるという意味において、重要なのである。
 例えば「地域内の寝たきり老人が何人いるのか」「介護者は、どの様なサービスを施設や行政に求めているのか」等が調査で明らかになれば、施設作りの必要性を訴える証拠になり、行政が福祉施策を考えていく参考になる。

ソーシャル・ウェルフェア・アドミニストレーションは、社会福祉運営管理と訳される。
社会福祉分野の施設・団体等が、目的を効果的に達成するために必要な運営管理のことをいう。福祉現場において、個々のワーカーが理想的なケースワークやグループワークの技術をもっていたとしても、各ワーカーがバラバラな関わり方をクライエントに対してした場合には、相手に混乱を招くだけであろう。職員会議等において、互いの個性を認めながらも処遇の方針の確認をしていくことが重要になってくるのである。
 また、例えば施設において50人の入居者をどのような部屋割にするのか、どのような行事を何月に実施するかといった行事予定の決定等もアドミニストレーションの具体的内容である。
ここで重要になってくるのは、アドミニストレーションの目標は、「効果」であって 「効率」ではないということである。処遇の結果、どのようにクライエントが変化したか、福祉問題が解決したかといった変化の大きさが「効果」であろう。それに対して、必要とした経費や時間の大きさと、成果の大きさを比較するとき、それは「効率」となる。福祉においては、効果は求めなければならない。しかし効率を求める余り、小さな努力・出費で大きな成果を得ようと考えるとき、それは社会福祉運営管理ではなく、一般企業における経営管理と同じになってしまうのである。
 ソーシャルプランニングは、社会福祉計画と訳される。従来施設作り等の行政計画は、ソーシャルアクションへの対応をも含めた、比較的短期的な視点の中で行われていた。高齢化社会、小子化社会等の状況の中で、中長期的な視点に立っての福祉計画が必要とされるようになってきた。今、必要かどうかだけでなく、5年後、10年後に高齢者がどれくらいの数になるのか、寝たきり等の要介護者がどれくらいに増加するのか、といった予測値から施設をどれくらい増やし、ホームヘルパーを増員するのかといった計画が立てられてくるのである。典型的な例としてはゴールドプランの作成などがあげられる。

 2)おわりに
 ここであげたソーシャルワークの全てを一人の福祉専門職者がこなすわけではない。勤める職場や、職種によって、中心的に用いる手法は限定されてくるだろう。
しかし、自らが日常的に用いるアプローチ以外にも、問題解決の方法があることを知っておくことは、専門家にとっては義務とも言えるのである。


注1ソーシャルワークとケアワークに福祉実践を分け寮母の行う介護や保母の行う保育をケ
アワークとする考え方もある。
注2『日本の福祉士制度』京極高宣著 中央法規 1992年
注3 講座社会福祉4巻『社会福祉実践の基礎』仲村優一他編 有斐閣 1981年
注4 厳密には、ケースワークは、1対1関係に限らない。ファミリーケースワークという
言葉に見られるように、夫婦、親子等一つの問題を共通して抱えるクライエントを相手にす
る場合は複数相手でもケースワークである。
注5 『社会福祉基本用語辞典』日本社会福祉実践理論学会編 川島書店 1996年

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