●『ウェットウェア』解説(ハヤカワ文庫SF1989年11月刊)/大森 望




 本書は、いま最高におしゃれなSF作家、ルーディ・ラッカーの最新作 Wetware の全訳である。ルドルフ・フォン・ビター・ラッカーっていうお茶目なドイツ名前を持つこの数学者/作家は、八〇年代アメリカSFの中でもきわめて特異な位置を占めている。ギブスンよりポップ、スターリングよりラディカル、ベイリーよりマッド、ディックよりいきあたりばったりでエフィンジャーよりいいかげん、力は機関車よりも強く、高いビルディングもひとっ飛び。こんな作家、ほかにはいない。

 その証拠に、本書のこのつつましやかな短さを見よ。重厚長大化への道をまっしぐらにひた走るアメリカSF界にあって、こういうちゃんとした長さの長編を書く人はほとんどいなくなってしまった。映画には九〇分という理想の長さがあるように、SFにもふさわしい長さというものがある。私見では、SFにぴったりの長さはペーパーバックで一七六ページ、邦訳して文庫本三百ページ前後。そういう長さの長編を書いてた人って、いまは亡きディックでしょ、ベイリーでしょ、ジャック・ヴァンスでしょ、ほうら、りっぱなSF作家ばかり。だいたい長いSFっていうのは、過剰な心理描写とかブロックバスター小説的な要素とか、よけいなものがばんばんはいってきてるわけで、つまんなくはないにしても、やっぱりSFとしては不純なのである。不粋なのである。

 だから、いま第一線のアメリカ作家の中で、いちばん好きなのはだれかって聞かれたら、迷わずラッカーの名を挙げたい。そして本書は、そのラッカーが八八年に発表したりんりんの最新作。というわけで、ぼくはいまちょっとばかり緊張している。

 さて、タイトルが暗示するように、本書は、一九八二年に刊行された『ソフトウェア』の直接の続編で、ラッカー七番めのSF長編。さいわいわが国では、二冊つづけて邦訳が刊行される運びとなったので、本棚の奥から前作をひっぱりだしてくる苦労もない。万一、『ソフトウェア』を見逃している人がいたら、ただちに本書といっしょにレジに持っていくことをお薦めする(あわててことわっとくと、もちろん、本書だけでも独立した長編として読める。ただ、ものには順序があるというだけの話)。

 もっとも、ラッカーの場合、気が狂ったような文章とはちゃめちゃな展開のおかげで、読みおわった瞬間、「どんなストーリーだった?」と聞かれてもさっぱり思い出せず、とにかくおもしろかったんだけどなあ、というようなこともままあるから、『ソフトウェア』から『ウェットウェア』にいたる時代背景を、いったん整理しておこう。

 これまでのお話――
 むかしむかしあるところに、コッブ・アンダースンという天才科学者ががおりました。彼は、勝手におまんこして増えてくかしこいロボットを発明して、みんなに喜ばれます。でも、コッブさんはとってもやさしい性格だったので、ロボットたちが人間の奴隷になるのを哀れに思い、最初につくったロボットの一体に、人間服従回路をバイパスさせました。そのロボット、ラルフ・ナンバーズくんは自由に目覚め、仲間のロボットたちといっしょに二〇〇一年に一斉蜂起して、月の基地を人間から奪いとります。おかげでコッブさんは、仲間からさんざんののしられ、わびしい余生を送っていました。そこにある日、ラルフくんからお迎えがきます。むかしのお礼に永遠の生命をあげようというのです……。

 ここから先が『ソフトウェア』のお話で、コッブといっしょに月に行ったプータローのステイ・ハイは、プロレタリア・バッパーと、その奴隷化をもくろむ巨大ロボ、大バッパーとの階級闘争に巻き込まれ、ひょんなことから大バッパーのひとりをやっつけてしまい、坑夫ロボットたちのヒーローになる。おかげでプロレタリア革命は成功、月は無政府状態に。その前後のてんやわんやのいきさつは『ソフトウェア』をあたっていただくとして、本書はその十年後からはスタートする。

 革命の成功もむなしく、強力な指導者がいなくなったおかげでバッパーたちはあっけなく人間との戦いに破れ、月都市を奪われてしまう。いまは〈巣〉の穴蔵で暮らしながら、散発テロはやっているものの、どちらの陣営も最終的な手段に訴えることはせず、仲は悪いながらも共存共栄している……。

「バッパー」とは、バップ野郎ってな意味で、早い話がビーバップ族(ほら、前作でコッブの機械の体{ハードウエア}のサブルーチンを起動させるパスワードが、「ビー・バッパ・ルーラ」だったでしょ)、〈ビーバップ・ハイスクール〉のリーゼント兄ちゃんみたいな、いわばツッパリ・ロボットたち。内申書がなんだと職員室に反旗をひるがえすかわりに、バッパーたちは人間社会という権威に抗して戦うんだけど、いつも敗けてしまう悲しい運命にある。

 今回の主役は、前作でも大活躍したステイ・ハイ・ムーニイあらためスタアン・ムーニイ。かつては「生きてることにハイ」だった彼も、「今は、すっかり大人になって」、ムーニイ捜索社なる会社をつくり、「おれも昔はみんなとちがってたのに、今はみんなと同じだ」などと嘆きつつ地道に働いている。そこにとある科学者から、美人助手の捜索を依頼され……という発端から、物語は華々しく幕をあける。めずらしくカットバックを使って、一部時間を前後させたりしているので、各章のタイトルと日付にはご注意を。

 でだしにガツンとくるのはラッカー作品の常套手段、今回いきなり登場する融合{マージ}ってドラッグも、とにかくただごとじゃない。蛋白質を溶かしてゲロゲロ状態に変えてしまう超ハイテクの産物なんだけど、それでやることっていや、みんなでドロドロになってああ気持ちいい「生物都市」ごっこ。融合{マージ}してる最中に体をぶちぶちにされ、ドラッグから醒めてみるとわれ十数個の肉塊なり、てな羽目にになるまぬけなやつもいたりして。でも、でろでろに疲れて湯舟に浸かってるときなんか、ああこのまま溶けちゃったら気持ちいいだろうなあ、なんて思うのは人の情。友成純一/クライブ・バーカーふうにいえば、蕩{とろ}ける快感、「まり子のMはモンスターのM」(大原まり子)の甘美な世界。ところが世の中はわからないもんで、この変態ドラッグが、バッパーたちの極秘地球播種計画の決定的ブレークスルーとなり、スタアン・ムーニイはふたたび人類‐バッパー抗争に巻き込まれてゆく……。

 例によって、ふんだんすぎるほどにもりこまれたセックス、ドラッグ、ロックンロールの三種の神器に、ハイテク、宗教、哲学をふりかけ、ぐっちゃんぐっちゃんに融合{マージ}させて、はい『ウェットウェア』のできあがり、あれよあれよというまにどんどこどんどこ話は進んでいく。しかし、それにつられて話ばっかり追っかけてちゃもったいない。サイエンス・フィクションにはあるまじきラッカー文体の名調子を、なめるようにしてじっくり味わわなくっちゃうそ。ヒルベルト空間への量子論的トリップを体験するバッパー用ドラッグの描写なんて、ほかではちょっとお目にかかれないし、ケルアックとポウの文体でしゃべるインテリ・バッパーのかけあい漫才なんて、この世のものとは思えないくらいおっかしいんだから。

 おっと、忘れてた、タイトルのウェットウェアの説明をしとかなきゃね。翻訳者のバイブル『リーダーズ英和辞典』にも載ってないくらいピッカピカの新語だし、やはりウェットウェア問題を扱ったマイクル・スワンウィックの Vacuum Flowers が出たときには、あちらのSF評論誌〈Science Fiction EYE〉に、「あんた、ウェットウェアちゅうもんがまるでわかっとらんやないか」という批判が載り、作者が「なにいうてんねん、あほさらせ」と反論する事件があったくらい因縁の深い言葉なのである。その反論中、スワンウィックが、MITの人工知能研究室に電話して確かめた(しかしおおげさなやつだ)と書いているウェットウェアの定義は、「有機体の中で情報処理に携わる神経網もしくは神経構造」。むずかしくていまいちピンとこないので、最新英語情報辞典第二版を引いてみると、
「1(コンピューターのソフトウェアを考えだす)人間の頭脳▼この意味が拡大されてあらゆる生物の「頭脳」の意にも用いる。 2《米俗・ハッカー》ウエットウエア、コンピューター人間:ソフトウエアを作成し、ハードウエアを操作する人間のこと。▼原義は「湿り物」で、ハードウエアやソフトウエアと違って、血が通い、水気があって生きているもの、すなわち人間を指す。(後略)」
 うん、湿り物っていうのはいいね。ハードウェアは堅物で、ソフトウェアは柔か物か。それはともかく、本書で使われているのも、おおむねこういう意味だろう。人間の頭ん中のソフトウェア、というか、人間の場合は自由にとりだしてべつでハードで走らせたり、ってわけにはいかないから、ワープロ専用機の内蔵ソフトみたいなもんか。

 さて、本書は、ラッカーがサイバーパンクを意識して書いた初めての長編、って触れ込みなんだけど、ラッカーの小説って(すくなくともその姿勢は)はじめっからサイバーパンクだったようなもんだから、べつに『ウェットウェア』からいきなり変わってるわけじゃない。ただ、オープニングのハードボイルドふうの語り口とか、カットバック、多視点の採用とか、ギブスンを意識してる感じはするし、コラージュ・アーティストぶりもギブスンそこのけ。融合{マージ}を発明するマッド・サイエンティストがマックス‐ギブスン・ユカワなんて冗談は初歩的で、奥さんをまちがって撃ち殺して月に出奔するステイ・ハイの来歴は、ウィリアム・バロウズのそれにぴったり重なるし、第四章の、ネズミに操られるケン・ドールの描写はもろバロウズ文体。バッパー側の主役バーニスは、ポウの代表的短編「ベレニス」からのいただき( Berenice は英語読みするとバーニスになる)。あとバッパーをサイバーパンクと読み変えれば、アジモフを打倒し、虐げられたロボットたちを解放するバッパー革命は、サイバーパンク運動そのものとも考えられなくはない。

 そういえば、ヒューマニズムに対する過激さも、サイバーパンクはだし。ラッカーの一貫した主張である「すべてはひとつ」理論によれば、無限次元空間の前ではロボットも人間もみな平等。つうことで、バッパー・ソフトウェアと人間ウェットウェアの両方を組み込んだバッバの誕生のくだりは、イエス・キリストの生誕を下敷きにした美しいエピソードなんだけど、だからといって、『岬一郎の抵抗』みたいな美しくも悲しい殉教の物語になるかといえばさにあらず。ここには書かないけど、バッパーの救世主たちはあっと驚くその行動で、みごと読者を裏切ってくれる。このあたりのバッパーと人間のちがい(と人間が勝手に決めつけること)には、アンドロイド/人間のディック的主題のエコーが聞きとれるんだけど、ラッカーの場合は、むしろそこんとこの違いにこだわることを嘲笑っているような節があって、読者は宙ぶらりんにされてしまう。つくづく人の悪い作家だと思う。だからこそ「ラッカーは読者をいらだたせる」(中村融、SFマガジン八八年三月号SFレビュウ。ただしこれは誉め言葉)という評も出てくるんだけど、いらだつどころかそれに狂喜してしまうわたしは、やはり根性が曲がってるんだろうか。

 まじめな人、怒りっぽい人にはちょっとおすすめ、善良な人には中くらいにおすすめ、性格の悪い人、口の悪い人には大おすすめの、八〇年代文学の掉尾を飾る大傑作。さあ読め。




top | RR top | link | board | articles | other days