●『フリーウェア』訳者あとがき(ハヤカワ文庫SF2002年3月刊)/大森 望




 たいへん長らくお待たせいたしました――と頭をかきつつ、ルーディ・ラッカーの『フリーウェア』をお届けする。著者十八番のアナーキーなでたらめぶりにますます拍車がかかり、ぶっとびかげんはこれまで以上にりんりんにしてナミナミ。いやもうまったくすばらしい。

 愛国主義的傾向を激しく強める最近のアメリカを見てると、ラッカーみたいな作家はさぞや暮らしにくいんじゃないかと思うわけですが、そういうご時世だからこそラッカーの存在価値が高まるというか、なんとなくタイムリーな時期にこの日本語版が出ることになった気がしなくもない――というのはもちろん邦訳刊行が大幅に遅れた言い訳ですが、本書は一九九七年に刊行されたFreewareの全訳で、著者にとっては十冊めの長篇。『ソフトウェア』『ウェットウェア』につづく、《ウェア》シリーズ第三弾にあたる。

 前二作の邦訳刊行からずいぶん間があいてしまったので、「前の話をさっぱり覚えてませんが」とか「そんな本が出てたなんて知らなかったYO!」とか「だいたい『ウェットウェア』って品切じゃん!」とかって人も多いだろうけど、いきなり本書から読んでもそんなに大きな障害は発生しないから気にしないように。

 そもそもラッカー作品の場合、破天荒なアイデアや驚天動地の展開、人を食ったギャグや天馬空を行く傍若無人なグルーヴ感がキモになるわけで、ストーリーの比重は非常に小さい。
ラッカー版の未来史(いや、正確にはパラレルワールド史か)とでも形容すべきこのシリーズでも、なにかひとつの事件または発明・発見によって生じる世界の変化を最初から追っていく――というSF伝統のスタイルはほとんど無視。だいたい第一作の『ソフトウェア』だって、話はいきなり途中からはじまるわけだし(物語の時点では、自律的なロボット=バッパーの誕生も、二〇〇一年の月で起きたバッパー叛乱事件も、とっくに過去のことになっている)、巻ごとに時代も飛んでるので、各巻のあいだに直接的な連続性はない。その意味では、どこから読みはじめてもおんなじことなのである。

 そうはいっても背景がわからないと落ち着かないのよという律儀な読者のために、「これまでのお話」をごくおおざっぱに整理しておこう。

 第一作の『ソフトウェア』は、フロリダで冴えない余生を送る天才科学者、コッブ・アンダスン博士のもとに、月からお迎えがやってくるところから幕を開ける。コッブ博士は、自己複製しながら遺伝的アルゴリズムによって進化していく知的ロボット、通称バッパーの生みの親(そのの理論的バックボーンに使われているのがゲーデルの不完全性定理)。そのためかつては世界的な名声を博してたんだけど、彼がひそかにとあるバッパー(ラルフ・ナンバーズ)の人間服従回路(ロボット工学三原則にちなんでアシモフ回路とか呼ばれる)を遮断していたおかげで、月のバッパーは二〇〇一年に一斉蜂起し、人類から月面基地を奪取。おかげで人類の裏切り者の烙印をおされたコッブじいさんはひとりわびしく暮らしていました、と。で、その窮状を知った月のバッパーが、恩人に報いるべく、永遠の命を授けましょうと迎えをよこしたわけですね。

 しかし、お迎え担当の「生きてることにハイ」なお気楽男ステイハイ・ムーニイとともに月へ向かったコッブは、大騒動の渦中に投げ込まれる。なにしろ月は、労働者階級のプロレタリア・バッパーと、その奴隷化をもくろむ大バッパーとの階級闘争のまっただなか。ひょんなことから大バッパーのひとりをやっつけてしまったステイハイは、坑夫バッパーたちのヒーローになるのだが……。

 つづく『ウェットウェア』の現在はその十年後。革命の成功もむなしく、大バッパーの卑劣な裏切り行為により、バッパーたちはあっけなく人間との戦いに敗北し、月面都市を奪い返されて、いまは地下の穴蔵で細々と暮らす日々。

 さて、小説の冒頭、スタアンと名を変えて月で探偵社を営むステイハイ・ムーニイは、ISDN(三菱とAT&Tの合併で誕生した巨大企業)の分子生物学者、マックス・ギブスン・ユカワ博士から、行方不明になった助手、デラ・テイズを捜してほしいとの依頼を受ける。
 ――と、ハードボイルド風にはじまるものの、物語の中心となるのは、人間の体にバッパーの知性を持つ{肉{ミート}バップ。これこそ、バッパーが人間の迫害を打破すべく用意した最後の切り札だった。行方不明のデラ・テイズは、史上初の肉バップを子宮に植えつけられ、バッパーの救世主たるべきマンチャイルを産み落とすことになる。

 一方、ISDNを中心とする人類側は、チップに感染してバッパーの知性を破壊する{素子黴{チップモールド}}の開発に首尾よく生硬。これによってバッパーはみごと全滅したものの、ついでにコンピュータ文明も崩壊して、人類社会は大打撃を受ける。さらに、イミポレックスと呼ばれる新素材の樹脂にチップモールドが感染した結果、プラスチックの肉体を持つ新たな人工生命が誕生する。これがすなわち、{カビ{モールド}}から生まれた{モールディ{カビイ}}というわけだ。

 そこからさらに二十年を経た世界が主な舞台となる本書『フリーウェア』では、そのモールディが主役。さて今度はいったいどんな話なのか? それについては、かつてサンフランシスコはヘイト・ストリートのカフェで、『フリーウェア』を書き上げたばかりの著者にインタビューしたとき、ラッカー自身がオレのThinkPadを奪いとって打ち込んだ文章が残っているので、それを引用しよう(一部ネタバレあり。未読の人は注意してください)。

『フリーウェア』の現在は二〇五三年。トレ・ディーツと妻のテリ・パーシスプは、サンタクルーズでモーテルを経営している。そこで従業員として働いているのが、モールディと呼ばれるイミポレックス製のロボット、モニク。彼女はまもなく、ランディ・カール・タッカーという名の変態モールディ強姦魔に誘拐される。この手の連中はチーズボールと呼ばれてて、モールディとセックスするのが趣味。ランディが拉致したモールディは月に運ばれ、彼らの《巣》で暮らすことになっている。

 バンガロールの某巨大企業でランディの上司だったインド人数学者スリ・ラマヌジャンは、トレの開発した四次元くるくる鶏フィルタを使って、モールディ上で走る非常に特殊なプログラムをつくる。本来の目的はモールディを奴隷化することだが、このプログラムはのちに、〈ガードル復調〉に使用されることになる。つまり、これを使うことで、モールディの肉体を一種のアンテナとして機能させ、異星生物の魂の暗号化された情報を復号するわけだ。信じようと信じまいと、このエイリアンたちは、宇宙線に姿を変えて、ぼくらのまわりをしじゅう旅している。つまり、これが#フリーウェア#というわけ。あんまりありがたいものじゃないかもしれないけど、とにかく{無料{フリー}}。スタアン・ムーニイやその妻のウェンディも登場して、後半は月を舞台に一大スペクタクルが展開される……。

 なんかでたらめな話だなあと思うかもしれないが、だいじょうぶ、中身はもっとでたらめです。中盤以降の展開はもう唖然茫然。自分で訳しといて言うのもなんだけど、やっぱりラッカーは最高やね。SF界広しといえども、こんな小説を書ける人はほかにいません。

 最近のラッカーは、ひと頃に比べると執筆ペースもぐんぐん上がり、絶好調の気配。このへんであらためて、ラッカーの長篇作品リスト(小説のみ)を掲げておこう。

1 White Light,or, What is Cantor's Continuum Problem? (1980) 『ホワイト・ライト』黒丸尚訳/ハヤカワ文庫SF
2 Spacetime Donuts (1981) 『時空ドーナツ』大森望訳/ハヤカワ文庫SF
3 Software (1982) 『ソフトウェア』黒丸尚訳/ハヤカワ文庫SF
4 The Sex Sphere (1983) 『セックス・スフィア』大森望訳/ハヤカワ文庫SF
5 Master of Space and Time (1984) 『時空の支配者』黒丸尚訳/ハヤカワ文庫SF
6 The Secret of Life (1985) 『空を飛んだ少年』黒丸尚訳/新潮文庫
7 Wetware (1989) 『ウェットウェア』黒丸尚訳/ハヤカワ文庫SF
8 The Hollow Earth (1990) 『空洞地球』黒丸尚訳/ハヤカワ文庫SF
9 The Hacker and the Ants(1994) 『ハッカーと蟻』大森望訳/ハヤカワ文庫SF
10 Freeware (1997) 『フリーウェア』大森望訳/ハヤカワ文庫SF *本書
11 Realware (2000)
12 Spaceland (2002) 刊行予定
13 Bruegel (2003) 刊行予定

 このほか、3と7を合本にしたLive Robots (1994)と、3と7と10を合本にしたMoldies & Meatbops (1997)が出ている。
 未訳・未刊の新作について簡単に紹介しておくと、12は、エドウィン・A・アボットの 『二次元の世界』にインスパイアされた長篇で、シリコンヴァレーの中間管理職が四次元生物に出会う話らしい。第一章と第二章の抜粋がオンラインSF誌、The Infinite Matrix (http://www.infinitematrix.net/stories/)で読める。

 原稿がまもなく完成するという13は、ラッカーが少年時代から愛好していた十六世紀フランドルの画家、ピーター・ブリューゲル父の生涯を描いた長篇。ラッカーの歴史小説? ブリューゲルが主人公? まったく想像もつかないが、刊行がちょっと楽しみではある。

 順番が前後したが、《ウェア》シリーズ最新刊で、いまのところ完結編となるらしい11には、本書でも活躍した双子の片方、ヨークが登場する。トンガ王国へバカンスへ出かけたはずが、なぜか四次元エイリアンと遭遇。リアルウェアを使ってなんでも好きなものをつくりだせる魔法の杖をプレゼントされて、またしても大騒動に……。
 邦訳は未定なので、オレに続きを読ませろと思う人は早川書房編集部に続巻希望のお便りをどうぞ。友人知人に宣伝して本書の売り上げをどんどん伸ばすとさらに効果的です。

 最後に翻訳について。ご承知の通り、『ソフトウェア』と『ウェットウェア』に関しては、故・黒丸尚氏のすばらしい訳業がある。最初はなるべく雰囲気を合わせようと思ったんだけど、どうあがいても無理だと判明したので、途中から、「代表的な固有名詞と主な造語の翻訳はなるべく既訳に合わせる」という程度に方針を変更した。前二作の愛読者は頭の中で黒丸文体に変換しながら読んでください。

 また、科学系の用語に関しては例によって菊池誠にチェックしていただいた。記して感謝します。その他、訳注めいたこともいくつか書く予定だったが、すでに与えられたページを超過している。ここに書けなかったあれこれのこぼれ話は、訳者のサイトに開設したルーディ・ラッカーのファン・ページ(http://www.ltokyo.com/ohmori/rucker/)を参照してほしい。また、著者自身のウェブサイトは、http://www.mathcs.sjsu.edu/faculty/rucker/にあります。

 では、『リアルウェア』の訳者あとがきでふたたびお目にかかれることを祈りつつ。

                          二〇〇二年二月、大森 望



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