山田正紀『神狩り』(ハルキ文庫)解説


   解 説

大森 望  

 なぜ書くのか、などと考えてみたこともないし、考えるべきだとも思わない。(中略)
 では、なぜSFなのか、と訊かれたらどうなのか? それも応えない、としたら、やはり、怠慢のそしりはまぬがれないだろう。
「想像できないことを想像する」
 という言葉をぼくは思い浮かべる。一時期、この言葉につかれたようになり、その実現に夢中になっていたことがある――。
 SFだったら、それが可能なのではないか?
 だめだろうか?

 一九七四年の春。早川書房が発行するSFマガジンの五月号に、二十三歳の新人作家が書いた三百枚の長編が一挙掲載された。目次の惹句にいわく、
「隧道の壁に描かれた奇怪な紋様――なぜかそれを文字と直感した若き情報工学の天才は突然の落盤事故にあう。薄れゆく意識の中で彼の見たひと影は果して幻影か……?」
 タイトルは『神狩り』。
 山田正紀の記念すべき商業誌デビュー作である。

 冒頭に引用したのは、この作品の扉ページに、『抱負』と題して掲載された文章の一節。
「想像できないものを想像する」――これは、本書にも引用されているヴィトゲンシュタインの言葉、「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない」に対するアンサーソングだろう――というフレーズは、山田正紀のSFを形容するうってつけの表現として、その後しばしば引用されることになる。しかし考えてみれば、語りえぬことを無理やり語ろうとする蛮勇は、すぐれた本格SFの持つ本質的な機能にほかならない。では、「想像できないものを想像する」とはどういうことなのか。この二十三歳の新人作家は、デビュー作でそれをみごとに具体化してみせたのである。

 それにしても……あれからもう四半世紀の時がたつ。たとえば、『神狩り』が掲載されたSFマガジン七四年五月号の目次を開いてみよう。巻頭は半村良の短篇「ボール」。連載は、手塚治虫(マンガ『鳥人伝説』)、真鍋博、横田順彌、川又千秋、光瀬龍、荒巻義雄という布陣で、書評担当は福島正実と石川喬司。この年の正月映画として公開された「日本沈没」が大ヒットし、日本SFは夏の時代を謳歌していた。SFがまだ若く、活気にあふれたジャンルだったころ。
 このセンセーショナルなデビューから二十四年後、山田正紀はSFマガジン通巻五〇〇号記念号(一九九八年二月号)から、長編SF『星砂、果つる汀に』の連載を開始するのだが、連載第一回に添えた短いエッセイの中で、こう書いている。

  あのころ――光瀬龍さんが壮大な壮大な宇宙叙事詩を書き、眉村卓さんが内省にとんだ インサイドSFを書き、豊田有恒さんが歴史SFを書き、平井和正さんが『サイボーグ・ ブルース』を書いていたあのころ。ちょうどぼくは青春に踏み込んでいこうとしていたの でした。ぼくの青春はわびしく、みっともないものでしかありませんでしたが、SFマガ ジン、そしてSFの青春はキラキラとまばゆいばかりに輝いていました。SFは青春の文 学だったのです。

 ここで言う「あのころ」とは、一九六〇年代末を指す。そして、作家・山田正紀が華々しく登場したのは、日本SF第一世代に属する作家たちのめざましい活躍が一段落し、日本SFが青春の時代から成熟の時代(または「浸透と拡散」の時代)に入りつつある時期だった。
 第一世代の作家たちがそれぞれの道を歩みはじめたこの時代、山田正紀は真夏のSF界に彗星のごとく登場した、日本SF第二世代の本格SF作家だった。"SF界のサラブレッド"((C)小松左京)と呼ばれた山田正紀は、その後長く、日本SFの中核を支えつづけることになる。

 本書『神狩り』は、SFマガジン発表の一年後、七五年八月に、早川書房の日本SFノヴェルズの一冊として、加筆修正をほどこしたうえで出版された。
「それは、薊でなければならなかった」ではじまるあまりにも有名なプロローグは、単行本化に際して加えられたもの。また、雑誌掲載版は、第二部までで終わっている(本書第二部の最後の一行を、「道は、まだまだ遠いのだった」にさしかえれば、初出時の状態になる)。
 その後、『神狩り』は、ハヤカワ文庫JA(七六年一月初版)と角川文庫(七七年十一月初版)にあいついでおさめられたが、ここ数年は新刊書店で手に入りにくい状況がつづいていた。この歴史的名作がふたたび新刊として書店に並ぶ日が来たことを喜びたい。

 それにしても、"神"というテーマは、どうしてこうも日本人の心を惹きつけるのか。映画『未知との遭遇』や『コンタクト』の結末にあらわれるキリスト教的イメージに拒否反応を示すこの国のSFファンたちも、なぜか"神"をテーマにしたSF作品には目がない。小松左京や光瀬龍の往年の名作にとどまらず、最近でも瀬名秀明のベストセラー『BRAIN VALLEY』や第二回スニーカー大賞を受賞した吉田直『ジェノサイド・エンジェル』、さらにはTV特撮の『ウルトラマン・ティガ』、アニメの『新世紀エヴァンゲリオン』や『南海奇皇{ネオランガ}』など、人間と神の関係を考察した作品は、数え上がればきりがないほど。
 山田正紀の"神"三部作(後述)の影響を強く受けて、『南海奇皇』を企画したという脚本家の會川昇は、「ゴジラをはじめとする日本の怪獣は、本来、神の眷属だった」と語る。神を信じない日本人は、だからこそ神という対象にどこか居心地の悪さを感じ、論理的に理解したいという欲求を持つのかもしれない。
 いずれにせよ、山田正紀が"神"に憑かれた作家であることはまちがいないだろう。本書『神狩り』(75)と、その翌月に出版された第二長編『弥勒戦争』(75)、角川小説賞に輝く『神々の埋葬』(77)の三冊からなる"神"三部作(もっとも、相互に直接の関係はない)以後も、『顔のない神々』(85)、《神獣聖戦》シリーズ(84〜86)、《機械獣ヴァイブ》シリーズ(85〜88)などで"神"に挑みつづけている(SF作品に限らず、九七年の本格ミステリシーンで台風の眼となった大作ミステリ『神曲法廷』でも、"神の言葉"が重要なモチーフとして使われていた)。
 では、山田正紀にとって"神"とはなにか。『神々の埋葬』単行本のあとがきでは、
「実のところ、どうしてぼくがこれほど"神"に執拗にこだわるのか、自分でもよくはわからないのだ。かつて、権力のチャンピオン、倒すべき体制の代名詞として、"神"の名をかりているだけだと考えたこともあったが、どうもそればかりではないようだ。なにより、今のぼくは、体制反体制という言葉に、さほどの意味を認めなくなっている」
 と告白しているが、『神狩り』における神は、明らかに、倒すべき絶対者として描かれている。自分の力ではどうしようもないもの――固定的な"この現実"を象徴するのが神だとすれば、神と闘いつづける山田正紀の作家的資質は、フィリップ・K・ディックのそれと意外に近いかもしれない。
『神狩り』の最大の特徴は、神という抽象的な存在に、具体的な手がかりを持たせたことだろう。人間には神を理解することができない。そこに、「それは神が上位の論理レベルに属しているからだ」という明快な理由を与えたところに本書のポイントがある。神を理解できないことは同じでも、「なぜ、どのように理解できないのか」なら理解できるわけだ。
 それを示すための小説的装置として、《古代文字》が登場する。論理記号が二つしかなく、関係代名詞が十三重以上に入り組んだ"神"の言語。
 SFとしての『神狩り』は、ほとんどこのワンアイデアだけで勝負しているといっても過言ではない。それ以外の部分は、SFというよりむしろ、「見えない力と懸命に闘う若者を描いた青春小説」として読むことができる。
 じっさい、九八年六月に京都で開かれた関西ミステリ連合の大会にゲストとして出席した山田正紀は、『神狩り』について、「自分ではSFだと思っていない」という意味のことを発言している。
『神狩り』がSFじゃないなら、いわゆる「日本SF」の九割はSFじゃないだろう――という反論はさておき、ハード・サイエンス的なディテールが乏しいという意味でなら、たしかに納得できなくもない。「人間は、関係代名詞が七重以上入り組んだ文章を理解することができない」という説の根拠や、連想コンピュータのディテールが本書の中で描かれることはない(後者について言えば、むしろそのおかげで、発表後四半世紀を経てもほとんど古さを感じさせないわけだが)。
 にもかかわらず、『神狩り』は日本SFを代表する傑作として広く認められ、ジャンルの垣根を越えて、さまざまな分野のクリエーターたちに影響を与えてきた。本書における《古代文字》と"神"の設定がいかに魅力的だったかの証拠だろう。神が不可知なのは、人間とは論理レベルが違う存在だからなのだという認識は、SFならではの強烈な"センス・オブ・ワンダー"をもたらす。こうした"認識の衝撃"こそがSFの本質であり、夏の時代だろうと冬の時代だろうと関係なく、それは若い世代の読者を魅了する。
 前述のミステリ系コンベンションでも、会場からの質問の半数以上は、『神狩り』や『地球・精神分析記録』など、二十年以上前に書かれた初期SF作品に関するものだった。入手しにくい状況にあるにもかかわらず、いまの学生たちにも読まれつづけているようだ。『神狩り』に代表される山田正紀のSFこそ、いつまでもキラキラと輝きつづける青春の文学なのかもしれない。

 周知のように、九六年の『女囮捜査官』五部作以降、著者は集中的に本格ミステリを発表、、「現代本格の中軸を担う作家」(笠井潔)とまで評されている。八五年から九五年にかけての十年間、《機械獣ヴァイブ》《スーパー・カンサー》《闇の太守》《破壊軍団》《機神兵団》《仮面戦記》《影の艦隊》《妖虫戦線》……と多様なシリーズ作品を連発してきた山田正紀だが、この"シリーズの時代"が一段落し、いまは"ミステリの時代"に移行したようにも見える。
 とはいえこれは、"冬の時代"のSFから"夏の時代"を謳歌するミステリへの逃避ではもちろんない。前出の講演でも、『妖鳥』や『螺旋』について、「SFのテーマをミステリに展開する試み」と説明していたけれど、これらは本格ミステリの骨格を採用しつつも、SF的センス・オブ・ワンダーを失っていない。たとえば『神曲法廷』を、成熟した『神狩り』として読むことも可能だろう。
 二十三歳でデビューしてから二十三年。すでに百四十冊近い著書を数えるベテラン作家だが、山田正紀の筆力とアイデアは今も衰えていない。SFマガジンの連載が佳境を迎えているウイルスSF長編『星砂、果つる汀に』の完結も楽しみだ。



top | link | board | other days | books