ルーディ・ラッカー『時空の支配者』(ハヤカワ文庫)解説


   解 説

大森 望  

 十年ひと昔というけれど、その伝でいけば、本書『時空の支配者』が新潮文庫より刊行されたのは、もう0.8昔も前のことになる。最近ではSFファンの新陳代謝もぐっとゆるやかになっているから、世代交代で読者が一変とまではいかないにしても、著者をめぐる状況が(すくなくとも日本では)当時とくらべて一変したことはまちがいない。
 なにしろ本書は、ルーディ・ラッカーの記念すべき本邦初紹介長篇。しかもそのころは全然売れなかったわけだから、それを思うと(当時の担当編集者としては)いささかの感慨がないでもない。以来八年間でラッカーの著書はノンフィクションも含めてあらかた翻訳され、いまや押しも押されもしない人気作家。九〇年五月と九三年八月には、国際コンファレンスのゲストスピーカーとして二度にわたって来日(通産省後援の国際シンポジウム〈サイバースペース:仮想現実の創造――ヒューマン・マシン・インターフェースの未来〉と、東京国際美術館の「人工生命の美学」展)、SF外の媒体からもインタビューが殺到して、熱い注目を集めている。SFマガジンの個人特集はともかく(九四年五月号)、まさかあのラッカーが、朝日新聞社刊行のパソコン雑誌の表紙を飾る日が来ようとは。
 本国のアメリカでも、最近は著書のプロフィール欄に、
「作家、科学者、カルトヒーローたるルーディ・ラッカーは、今世紀の幕切れに生まれたサイバーパンク・カルチャーのキーパースンとして登場した」
 と紹介されるくらいで、そのかっこよさにはますます磨きがかかっているのである。

 というわけで、本書は一九八四年にアーバーハウスから刊行されたMaster of Space and Timeの全訳である。冒頭に書いたとおり、八七年四月には新潮文庫から黒丸尚訳で邦訳されたが(ちなみにこのときのカバー/挿画は吾妻ひでお)、長く手に入りにくい状態がつづいていた。ラッカー十八番のこのハチャメチャSFがふたたび文庫で読めるようになったことを心から喜びたい。
 本書の中身について解説すべきことはほとんどない。主役コンビのハリイ・ガーバー&ジョー・フレッチャーは、「遠い目」「自分を食べた男」「慣性」の三つの短篇に登場するシリーズ・キャラクター。ラッカーの言を引けば、
「このふたりはきわめて伝統的なSFのキャラクター・コンビで、そのルーツはロバート・シェクリイのAAA{スリーエース}物やヘンリー・カットナーの諸作、さらにはそれ以前にまで遡る」という。
 ラッカー作品では実在の人物をモデルに造形されたキャラクターが多いんだけど(本書でいえば、アルウィン・ビターとその妻シヴィルはラッカー夫妻の分身だし、エディのモデルはニューヨーク・シティに住んでいるラッカーの友人だとか)、このふたりにかぎっては、ジャンルSFの歴史からサンプリングされた黄金コンビというわけ。そのせいか、このコンビが登場する小説は、本書も含めて、ジャンルSFのお約束やガジェットを縦横無尽に使い倒して破壊的ギャグを大量生産する、SFおたく狂気乱舞のメタSFがほとんどを占める(じっさい、プランク長を一メートルにするなんてアイデアは、ハードSFファンの酒飲み話のネタそのまんまだもんなあ)。
 ただし残念ながら、このコンビには「もう飽きた」そうで、本書を最後にこのコンビの登場する小説は書かれていない。つまり『時空の支配者』は、ガーバー&フレッチャー物の唯一の長篇。その意味でも、きわめて貴重な作品なのである。

 さてこのあたりで、ハヤカワ文庫版『セックス・スフィア』以降のラッカーの近況(九二年六月以降)を書いておこう。前述のとおり、九三年八月には「人工生命の美学」展のゲストとして来日、オートデスク社のために開発した人工生命ソフト、A Life Lab.のデモと講演を行なった。フロッピーディスク一枚におさめられたこのソフトは、Windows上で動作する一種のソフトウェア・トーイで、パラメーターをさまざまに変化させることで、人工生命の進化を観察することができる(らしいのだが、素人が一時間いじってみた程度ではよくわからなかった)。約三百ページの本がバンドルされていて(というか、ウェイト社から刊行された新版を見るかぎり、いわゆるディスク・ブックの体裁)、うち百ページが人工生命全般をめぐるエッセイ、残り二百ページがソフトウェアの取扱説明書になっている(アスキーから日暮雅道・山田和子訳で近刊予定)。人工生命プログラムのひとつは『ソフトウェア』にちなんでビッグ・バッパーと名づけられている。
 つづいて九四年には、このA Life Lab.と対をなすSF長篇、Hacker and the Antsがモロー社から出版されている。時代的には『ソフトウェア』『ウェットウェア』の前篇にあたる作品だが、直接の関係はない。かんたんに中身を紹介しておくと……
 舞台は近未来のサンノゼを中心とするシリコンバレー一帯。情報スーパーハイウェイ構想(のようなもの)はすでに実現し、ファイバーネットとよばれる光ファイバー通信網が全世界をおおっている。ヘッドセットとデータグローブによるバーチャル・リアリティ・インターフェイスはもうあたりまえで、ネット空間は文字どおりのサイバースペース。
 主人公ジャージイ・ラグビーは業界大手のゴーモーション社で家庭用人工知能ロボットの開発に携わる四十代のプログラマ。遺伝的アルゴリズムを人工生命開発に応用したプログラムを書いている。
 家族構成は、妻のキャロルと、(例によって)子どもが三人――長女のソレル(大学に入学して、サンノゼを離れている)、長男のトム、次女のアイダ。ただし、キャロルと別居中で、トムとアイダも母親がひきとっているため、現在はひとり暮らし(ちなみにキャロルの現在の恋人は日本人の寿司職人で、名前はHiroshi Takemkuru)。唯一の伴侶は、開発中のロボットの試作品、スタッドリーだけというさびしい毎日。
 ある日、サイバースペースで仕事をしていたジャージイは、人工生命の蟻を目撃する。どうやらゴーモーション社の社長、ロジャー・クーリッジが研究用に開発したソフトウェアが彼のサイバースペース・デッキまぎれこんだらしい。
 と、この事件を発端に、ジャージイは思ってもみなかった世界的陰謀の渦中に巻き込まれ、悲惨なドタバタを経験することになる……。

九四年三月、インターネット経由で行なったオンライン・インタビューによれば、ラッカーは自作を三つのカテゴリー――@Live Robots(生きているロボット)、ATransreal books(自伝的要素の強い作品群。いわば"超私小説"か)、Bその他――に分類している(SFマガジン九四年五月号参照)。
 @は『ソフトウェア』『ウェットウェア』二部作。Bが本書『時空の支配者』と『空洞地球』。 Aは、作中で扱われている年代の順番に並べると、『空を飛んだ少年』(63-67)、Spacetime Donuts(67-72)、『ホワイト・ライト』(72-78)、『セックス・スフィア』(78-80)となる。The Hacker and the Antsはこの系列の最新作で、八六年から九二年にかけて、オートデスク社の仕事をしていた時代の経験が背景になっている。
 この長篇につづいて、ラッカーは現在、『ソフトウェア』『ウェットウェア』の直接の続篇にあたる長篇、Freewareを執筆中。著者によれば、
「Freewareは、二〇六三年のカリフォルニア州サンタクルーズで幕をあける。その時代、アメリカの東西両岸にはモールディと呼ばれる新市民がおおぜいいる。埋め込み素子を搭載した明滅被覆だ。埋め込みチップのいくつかは幻覚誘発作用があって、モールディーとつきあってるとすごくハイになれる。モールディはセックスにもすごく効果的なんだけど、ひとつ問題がある。人間の鼻に触手をのばして、目の近くの弱い部分を突き破り、頭の中に"思考冠"を植えつけるんだ。モールディたちがいかにして市民権を得たかというと、これはスタンリー・ヒラリー・ムーニイ上院議員(カリフォルニア州選出)の努力の賜物」。
 年をとるにつれて書くスピードが落ちていると嘆くラッカーだが、順調に行けばこの長篇は九六年春に完成の予定だという。

 最後に、本書の訳者、黒丸尚氏について書いておきたい。黒丸尚、本名・佐久間弘氏は一九九三年三月一四日、四十一歳の若さで世を去った。生前の佐久間さんは、ウィリアム・ギブスンの電脳空間三部作をはじめ、数々の傑作を日本に紹介し、独自の翻訳スタイルでサイバーパンクという若いジャンルの日本における成功に大きく貢献した。とりわけ、本書をはじめとするラッカー作品の翻訳は、編集者として直接担当した贔屓目を抜きにしても、抜群のかっこよさを誇っていたと思う。ラッカーとの親交も厚く、Transreal!に収録されているラッカーの書き下ろし日本旅行記「一九九〇年日本の旅」(SFマガジン九四年五月号に訳載)の中では、佐久間さんから受けたインタビューの話や、佐久間夫妻と蒲田の小料理屋で過ごした一夜のことなどが楽しげにつづられている。最新長篇、The Hacker and the Antsに登場する日本人ヒロシの名前も、もちろん佐久間さんの名前からとったもの。本書を読み返すにつけ、残念でならない。しかし、訳者は亡くなっても、訳書は残る。鬼才ラッカーの狂騒的ストーリーとともに、個性あふれる黒丸節の名調子を楽しんでいただければと思う。

【ルーディ・ラッカー邦訳単行本リスト】
●SF長篇
1 White Light,or, What is Cantor's Continuum Problem? (1980) 『ホワイト・ライト』黒丸尚訳/ハヤカワ文庫SF
2 Spacetime Donuts (1981)*ハヤカワ文庫SF近刊予定
3 Software (1982) 『ソフトウェア』黒丸尚訳/ハヤカワ文庫SF
4 The Sex Sphere (1983) 『セックス・スフィア』大森望訳/ハヤカワ文庫SF
5 Master of Space and Time (1984) 『時空の支配者』本書
6 The Secret of Life (1985) 『空を飛んだ少年』黒丸尚訳/新潮文庫(品切)
7 Wetware (1989) 『ウェットウェア』黒丸尚訳/ハヤカワ文庫SF
8 The Hollow Earth (1990) 『空洞地球』黒丸尚訳/ハヤカワ文庫SF
9 The Hacker and the Ants(1994)

●ノンフィクション
Geometry, Relativitiy, and the Fourth Dimention(1977)『かくれた世界』(白楊社)
Infinity and the Mind(1982)『無限と心』(現代数学社)
Fourth Dimentions(1984)『四次元の冒険』(工作舎)
Mind Tools(1987)『思考の道具箱』(工作舎)
A Life Lab.(アスキー出版局近刊予定)




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