ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』(福武書店)訳者あとがき(19 年 月)


   訳者あとがき


大森 望  



 のっけから私事で恐縮ですが、本書はぼくにとって、いわば初恋の人でした。まだ学生のころ、米村秀雄氏がSFマガジン誌上に書いた紹介(八〇年十月号SFスキャナー)で彼女を知り、美しいカバーのペーパーバックで実物に接して、(いま思うと相手のことを半分も理解していたかどうか怪しいというのに)たちまち恋に落ちてしまったのです。それから十年の歳月が流れて、まさか自分で翻訳することになろうとは……。分不相応といえばこれほど分不相応もないでしょう、駆け出しもいいところの訳者が、SF史上に、いやアメリカ文学史上に燦然と光り輝く傑作を翻訳するなんて。それを承知で引き受けてしまったのは、「愛しているから」としかいいようがなく、ほかの男にやられるくらいならいっそおれが……という不純な動機もあったことは否定できません。
 天罰てきめんとはこのことで、翻訳作業は予想どおり、いや予想をはるかに上回って、困難をきわめました。普通名詞を固有名詞化する独特の用語法、文明崩壊後の世界に育った少年の一人称で語られることから来る幾多の難問(たとえばpicture を写真とは訳せないし、SF用語はもちろん科学技術用語も使えないわけです)、歳月の流れで微妙に変化した言葉を説明抜きで使っていること(クロスワードがクロスティック・ワードになってるのなんかかわいいほうで、v のひとつ多いavvengerを苦しまぎれに″複讐者〓とやったら、校閲担当の方からチェックの嵐でした)、そして、肉声の語り特有の息の長い文章……。トーテム的な意味で用いられている Cord の訳語や、人物名の処理(カタカナの多用は避けたかったので、基本的には〈しゃべる灯芯草〉のように日本語をあてましたが、ヒロインのOnce a Dayだけは〈一日一度〉とするに忍びず、ワンスアデイとカタカナ表記にしました)には、最後の最後まで迷いつづけました。できるかぎり原文の雰囲気を尊重し、なおかつ自然な日本語になるようにと心がけたつもりですが、実力不足はいかんともしがたく、いまは発表を待つ受験生の心境です。
 とはいえ、精緻なガラス細工のように入念に組み立てられた文章をひとつひとつ日本語に置き換えてゆくことは、苦労の大きい分だけ喜びも大きく、結末の一節を訳し終えたときには、文字どおり目頭が熱くなりました。SF史上、これほど美しくも切ない小説はない――惚れた弱みかもしれませんが、訳者のひいき目でなく、心からそう思います。
 自分で書くとメロメロになりそうで、忙しいなか無理をいって小川隆氏に解説をおねがいしたくせに、けっきょく最後にしゃしゃりでて、そのあげく、訳者にあるまじき恥知らずな愛情告白を書き連ねてしまったようです。SFとして、現代文学として、(訳文の出来はともかく)二読三読に耐えるこの名作をじっくり味わっていただければ、訳者としてこれに勝る喜びはありません。
 末筆ながら、一生に一度出会えるかどうかという作品を翻訳する機会を与えてくださった福武書店編集部の城所健氏に感謝して、なくもがなの蛇の足{スネークズ・フツト}にピリオドを打ちたいと思います。



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