ダグラス・ラシュコフ『サイベリア』(アスキー出版局)訳者あとがき(1995年3月)


   訳者あとがき


大森 望  



 通信カラオケ大手のJOYSOUNDでは、今年1月、収録曲数がついに一万曲を越えた。業務用カセットの時代からLDという大容量アナログメディアの時代に移行することによって一般化し、カラオケボックスの登場によって歌うことを万人に解放したカラオケは、MIDIデータによるデジタル革命で新しい時代に突入した。
 そこではあらゆる曲が電子データ化され、きのうリリースされたばかりのMr.Childrenの新曲も、美空ひばりの「かなしき口笛」も、まったく同列に再生される。ISDN回線や一般公衆回線を使って新曲の曲データを随時エンドユーザー(カラオケボックス各店)に送信し、一万曲内外のストックデータをハードディスクに格納するシステムだから、当然データ量は極端に切り詰められている(音楽CDの数百分の一)。つまりアナログメディアのLDカラオケにくらべて音質的には明らかに劣っているのだが、ユーザーが選んだのは音質より選択肢の多さだった。
 いま起きているのはつまりそういうことなのだといってしまっていいかもしれない。アーティスト自身が出演する映像をバックに高音質のソフトでtrfを歌う豪華さよりも、ヤプーズや「疾風ザブングル」や が歌えるセグメント化された情報を求める感性。TVメディアが凋落しインターネットが脚光を浴びる現在の社会情勢を支えているのも、つまりそういう感性だろう。
 既成メディアが大予算をかけてつくったお仕着せのメディアではなく、自分がほんとうに必要とする情報だけを選びとること。デジタル革命がそれを可能にし、マルチメディアの波がその範囲をさらに広げようとしている。モデムひとつ向こうに広がる広大なサイバースペースから、なんでも好きな情報を自由にピックアップできる時代。そしてその背景にはテクノロジーの爆発的な発達がある。「街場はなんにでも使い途を見つける」とウィリアム・ギブスンは書いた。高速デジタル通信回線と大容量ハードディスクとデータ圧縮技術の最先端の成果を集めて実現した通信カラオケはその典型的な例だといってもいい。
 本書、ダグラス・ラシュコフのCyberia: A Life in the Trench of Cyberspaceは、そんな時代の見取り図を提供する。既成のシステムに背を向けて、新しいメディアを模索する人々の姿を、ラシュコフは鮮やかに描き出す。通信カラオケでもわかるとおり、「街場」はコンピュータおたくだけをさすわけではない。もっともわかりやすいかたちで見えているのがコンピュータ・アンダーグラウンドだというだけのことで、現代文化のあらゆる局面から、この種の感性を抽出することはできる。
 あらためて本書を通読しながら、それにしても大きく出たものだと思わないでもない。ハッカー、コンピュータ・ネットワーク、ヴァーチャル・リアリティ、ブレインマシン、エレクトロニックフロンティアなど、いわばおなじみのコンピュータ・サブカルチャー定番アイテム群はもちろん、本書の守備範囲は、フラクタル、カオス、ハウス・ミュージック、クラブ・カルチャー、インダストリアル、ノイズ、ドラッグ・カルチャー、グレイトフル・デッド、サイバーパンクSF、アメリカンコミック、テーブルトークRPGなどなど、ありとあらゆる文化領域におよぶ。ある意味で蛮勇の産物といってもいい書物だが、コンピュータおたくとニューエイジ信者、ナイトクラブ人種とアメコミおたくの垣根をすべてとっぱらい、あらゆる文化現象にサイベリアを発見していく快刀乱麻の筆には一種の爽快感がある。そこではティモシー・リアリーも麻薬の売人も、サイベリアの住人として同列に論じられる。

 それにしても、サイベリアとはいったいなんなのか。cyberiaのスペリングが示すとおり、サイバネティクス/サイバーパンクのcyberとシベリアのSyberia(英語では「サイベリア」と発音される)を合成したこの造語は、直訳すれば「サイバー界」あるいは「電脳領域」といったところだろうか。じっさい、インターネットのホームページや同名のTV番組を見るかぎり、「エレクトロニック・フロンティア」「コンピュータ・アンダーグラウンド」などの同義語に近い言葉として使われているようだ。
 しかし、ラシュコフはこのサイベリアにもっと大きな可能性を見ている。もちろん、モデムを通じて簡単にアクセスできるのがサイベリアだが、ドラッグでトリップしたり、ハウスで踊ったり、TRPGでサイコロを振ったりすることによっても、やはりサイベリアに到達できるのだとラシュコフは考える。
 六〇年代のカウンターカルチャーに匹敵する九〇年代のオルタナティヴ・カルチャーを一言で表現する魔法の言葉、それがサイベリアだ。日本流にいえば、プレイステーションの新作ソフトの裏技を見つけてゲーム誌に投稿する小学生も、上司の目を盗んで夏コミに出すスラムダンク本の新刊を会社のコピー機で印刷するOLも、「ベル打っても返事はなしだしぃ」と嘆く女子高生も、携帯持ってスカしてるクラブのDJも、ひとしくサイベリアの子どもたちなのである。
 もっとも大多数の日本人サイベリアンたちなら「だよね」「そやな」でかたづけてしまう部分を、アメリカのサイベリアンたちは徹底的に理論武装しているようだ(もちろん理論武装しない人々のほうが圧倒的に多数派だとは思うけれど)。ディスコで踊ってLSDでトリップする行為をルパート・シェルドレイクの形態形成場理論だのフラクタル方程式だのを持ち出して正当化する論理には、「いわぬが花」の日本人的感性の持ち主としてはしばし茫然とするのだが、逆にいうとそこが本書のおもしろさでもある。最新の科学的・疑似科学的(むしろ超科学的かもしれない)議論をいちはやくとりこんで現場に応用するそのセンスは六〇年代譲りだろうか。
 
 六〇年代のムーヴメントを現代にオーヴァラップさせる論調は、SFの世界では八〇年代中盤のサイバーパンク・ムーヴメントのときにしばしば観察された。六〇年代のニューウェーヴ・ムーヴメントとサイバーパンクのあいだに共通項を発見し、あらたな革命のきざしを見てとる論法である。もっともSFのほうは、多少元気がなくなったことをべつにすれば順調に老境を迎えつつあるようで、一見、なにも変わっていないように見える。
 したがってサイベリアがどうなろうと人間は飯を食って糞して寝て子どもをつくるもんだから、なんにも変わりやしないよという意見はおそらく正しい(みんなが子どもをつくらなくなれば確実に未来は変わってしまうだろうが、とりあえずまだ、子どもをつくる人間のほうが多数派である)。生活保守主義を奉じる人々の日常にまでサイベリア的なものが侵入しつつあることはおそらくまちがいないにしても、変化に目をつぶりつづけることはおそらくそうむずかしくないだろう。とはいえ、せっかくこんな変化の時代に生まれ合わせたのだから、変化の波に乗ってみたいと思うのも人情。かつては「時代と寝る」などというおくゆかしい表現があったものだが、いまや時代の速度はとても寝るヒマなどないほど加速している。渋谷のイメージクラブでセーラームーンのコスチューム姿の風俗嬢と四〇分  円の仮想恋愛を楽しむのがせいぜい、あとははやく家に帰ってインターネットにダイヤルアップIP接続して、Netscapeでカルガリ大学のジャパニメーションのページをチェックしたりしないといけないかもしれないのである。とまあこれはこれでたいへんなことなのだが、そこまでつきあってみる気はないにしても、いまどんなことが起きているのかちょっとのぞいてみたいという、ぼくのような小市民にとって、本書は重宝なマップの役割をはたしてくれる。
 
 ただし、サイベリアン流にいえば、このマップにおいてもやはり、観察者は観察対象に影響を与えている。客観的に正しい地図が存在しないことが大前提になっている以上当然のことなのだが、『サイベリア』はだれにとっても正しい地図を提供する書物ではない。じっさい、本書で言及されるさまざまな科学的文化的知見には、そのまま信じ込んでしまうとバカを見る種類の話もすくなくない。たとえば ページで詳述されている形態形成場理論をはじめてシェルドレイクが本にまとめたとき、ネイチャー誌が「現代の焚書候補ナンバーワン」と徹底的にこきおろした事実を知っているのといないとでは、(とくに文系読者にとっては)かなり読み方が変わってくるだろう。


 本書の原書が恐れを知らない蛮勇の産物であるとすれば、その翻訳もまさしく蛮勇の産物である。著者が参考にした書物はできるかぎり現物を参照し、翻訳のある作品の訳語や固有名詞表記については既訳に準じる方針をとったが、すべてに完璧を期したとはとてもいえない。とくに、訳者の専門外の分野については、それぞれの分野の友人・知人の協力を全面的に仰いだ。フラクタルをはじめとする自然科学分野については阪大理学部物理学科助教授の菊池誠氏に、ドラッグ関係については特殊翻訳家の柳下毅一郎氏に、医学関係については兵庫県立姫路循環器センター神経外科の今村徹医師に、音楽関係については日本衛星放送の添野知生氏に、TRPG関係についてはグループSNEの(日本一ガープスにくわしい)佐脇洋平氏に、アメリカン・コミック関係についてはアメコミ研究家の堺三保氏に、法律関係についてはリーガル・サスペンス訳者の白石朗氏に、英語表現についてはスタジオ・プロテウスのトーレン・スミス氏に、それぞれご教示いただいた。とくに、突然Eメールで送りつけられた大量の訳文を原文とつきあわせてチェックしてくださったみなさんには感謝の言葉もない。ありがとうございました。
 また本書前半部の翻訳に関しては、インターネットにくわしい元郵政省の金子誠氏にご協力をいただき、WELLのシステムなどネット関係の記述についてもご教示をいただいた。編集を担当されたプランクの木村重樹氏には最大級の感謝を。校正中に左腕を骨折するという椿事に見舞われながらどうにかこうにか出版にこぎつけたのも、ひとえに木村氏のたゆまぬEメール催促と適切な原稿チェックのおかげである。




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