椎名誠『中国の鳥人』(新潮文庫)解説(1998年5月)


   解説

大森 望  



「だからですね、解説でも椎名さんの短編小説群全体を俯瞰して、いままでの流れとか分類とか、そういう方向でお願いしたいんですよ。SF短編集とか、日本SFとか、そういう言葉はなるべく使わずに」
 と、電話回線の向こうで新潮文庫のH川K一は言った。電話回線といっても、こちらの耳に押し当てられているのはIDOの携帯電話だから、「線」はつながってない。電波に乗ってどこからともかく伝わってくる声はなんとなく現実感が希薄で、
「SFと言われたくないんならSF屋に原稿頼まなきゃいいだろ」
 的な嫌味を思いついても、なんとなくそれを口にする気力が萎えてしまった。
 なにが「だからですね」なのかというと――H川の説明するところによれば――椎名誠の本の中でもSF(と言ってはいけない以上、ここは「超常小説」と言うべきなのだろう)は売れ行きがよくない。これはもう過去の数字が圧倒的決定的に証明するところであって、いちばん売れるのは〈怪しい探検隊〉シリーズであり、その次あたりが旅ルポとか身辺雑記エッセイとかで、それから〈岳物語〉のシリーズを筆頭とする私小説系列の短編集があり、さらに写真集が来たあと、いちばん下のほうに超常小説系列の作品が枕を並べて打ち死にしているらしいのである。
 売れない売れないっていうけどさあ、じゃあこの本(『中国の鳥人』新潮文庫版)の初版はいくつなの、と訊ねてみると、わたしが日本SFの新刊文庫の初版部数としてイメージする平均値の五倍以上に達する数値が返ってきたので、それだけ売れりゃじゅうぶんじゃんかよ、と険悪な気分になりかけたが、仲間と無人島へ行ってキャンプをしたらビールがうまかったとか、シベリアに行ったら眉毛が凍って寒かったとか、映画の撮影はたいへんだとか(以上、よく知らないのでテキトーな要約)、まあそういう類いのエッセイのほうはその二倍三倍の売れ行きを記録しているそうなのである。いやその、いちばん売れないといっても『大規模小売店と流通戦争』や『クレジットカードの実務知識』(いずれも文壇デビュー前の幻の著書)よりははるかに売れてるはずで、日本SFとしては大きく胸を張れるベストセラーなのだが、椎名誠の本としては物足りない、と、そういうことらしい。たしかに最近の出版業界の趨勢として、「売れる小説はミステリ、売れない小説はSFと呼ぶ」ことになっているので(←被害者意識による憶測)、「椎名誠の超常小説はSFと呼ぶには売れすぎている」と言われれば、これはもうすみませんと納得するしかない。
 椎名誠自身、「書けなかったこと」と題するエッセイ(新潮文庫『自走式漂流記』所収)の中で、
「僕の作品のジャンルの一つにいわゆる超常小説と呼ばれるものがあるが、これは書くのにものすごいエネルギーと集中力を必要とするジャンルでもある。その中でも『武装島田倉庫』や『アド・バード』といった一連の作品は、特にきつい。そのわりにこのジャンルは読者が少なく、非常に効率の悪い作業ともいえる(後略)」
 と書いている。効率が悪いのに嫌気がさしてSFを書かなくなり、ミステリや冒険小説やファンタジー方面に去っていった作家たちが多かったことが、現在の(ジャンルとしての)日本SFの衰亡を招いているわけだが(←歴史的事実に基づく乱暴な要約)、SF以外にはるかに売れる収入の道を抱えながら、椎名誠が今もなお「効率の悪い作業」をつづけ、(長篇はしばらく休んでいるとはいえ)定期的に超常小説を発表しつづけているのは、かつて「熱狂的SF小説中毒者」だった時代に培われたこのジャンルに対する愛情のおかげだろう。新潮文庫版『雨がやんだら』の解説で、北上次郎はその時代のことをこう書いている。

 (前略)椎名誠とぼくは熱狂的なSF中毒者だったのだ。会えばSFの話ばかりしていた。
 まだ二人とも20歳代の頃で、SFが現在のように市民権を得ていない時代のことである。
 いつも酒場で隠れるようにして会い、隣りの人に聞えないよう小声で話し合っていた記憶
 がある。当時、椎名とぼくにとって小説とはSFのことだった。「アドバタイジング・バ
 ード」の載った「星盗人」も、その誌名からわかるようにSF個人誌である。ぼくは椎名
 誠に純然たるSFフィクションを書いてもらいたかったのである。その才能を埋もらせて
 おくのはあまりに惜しいと考えていた。

 そうはいっても椎名誠自身、SFではなく超常小説という言葉を使っているではないかという反論がただちに予想できるのだが、これは「SF」というレッテルがつくと売れないからという営業戦略的理由ではなく、SFに対する遠慮のせいだろう(←無根拠な推測)。つまり、「椎名誠の超常小説は、SFと呼ぶには科学性に乏しい」という思い込みが(著者・読者・出版社の三方に)あるのではないかという気がする。しかし日本SFの歴史をひもといてみれば、椎名誠的超常小説はむしろ日本SFの中核だった。小松左京の一部の作品は例外としても、半村良にしろ筒井康隆にしろ眉村卓にしろ豊田有恒にしろ、日常を舞台に非日常的なことが起きる(科学的裏付けはほとんどあるいはまったくない)SF短編を書きつづけていたわけで、本書に収録されている短編群にしても、70年代ならなんの違和感もなく日本SFの短編集として受け入れられていたにちがいない。
 じっさい、『アド・バード』の原型である短編、「アドバタイジング・バード」がもし第一回奇想天外新人賞(一九七七年)を受賞していたら、椎名誠はまずSF作家として認知され、日本SFの歴史は大きく変わっていたかもしれないのである。
 現実には、椎名誠の記念すべきSF専門誌初登場作「いそしぎ」(SFアドベンチャー81年10月号初出。新潮文庫『雨がやんだら』所収)が発表されたとき、椎名誠はすでに〈スーパーエッセイ〉の旗手であり、押しも押されもしないベストセラー作家だったわけで、「ふうん、意外とりっぱなSF書くじゃないの」的な認知をされるにとどまった。その後、一九九〇年に発表された『アド・バード』が日本SF大賞を受賞するに及んで、ようやく日本SF界はSF作家・椎名誠を正当に評価したのだが、時すでに遅く、椎名誠はSF作家と呼ぶには忙しすぎる人間になっていた。

 というわけで、日常生活の断片を切りとって異形の世界を鮮やかに描く近未来SFの傑作「スキヤキ」を巻末に置く本書『中国の鳥人』が、SF小説集ではなく超常小説集(あるいはシーナ・ワールド短編集)として評価されるのも、歴史的必然かもしれない。じっさい、表題作をはじめとして、「月下の騎馬清掃団」「たどん」などの作品群は、英米の基準に照らせば到底サイエンス・フィクションではありえないし、どちからと言えば不条理小説とか秘境ファンタジーとかに分類されるものだろう。もっとも、前述のとおり、SFマガジンからデビューした第一期第二期のSF作家たちが中間小説誌へと活躍の場を広げていった七〇年代において、その種の作品が「日本SF」の主流をなしていたことは事実だから(筒井康隆〜かんべむさし〜中井紀夫とつづく流れのどこかに椎名誠を位置づけることも可能だろう)、椎名誠は70年代日本SFの正当な後継者であるという見方も当然成り立つのだが。
 ……と、負け犬の遠吠え的発言をくりかえしていても仕方がないので、現在にいたるまでの超常小説系列に属する椎名誠短編集をざっと概観してみる。詳細はリストを参照していただくとして、現在までに発表されている椎名誠の短編集はぜんぶで十八冊(『岳物語』系列などの連作短編集含む)。このうち、むしろ長編に分類すべき『武装島田倉庫』をのぞくと、超常小説短編集は『雨がやんだら』『ねじのかいてん』『胃袋を買いに。』『地下生活者』『中国の鳥人』『鉄塔のひと その他の短編』の六冊。ただし、『地下生活者』はJ・G・バラード(もしくは安部公房)を彷彿とさせる不条理短編「遠灘鮫腹海岸」(椎名誠自身によって映画化され、オムニバス映画「しずかなあやしい午後に」の一編として公開中)と、長編並みの分量のある表題作とをカップリングした本だから、短編集に含めるのはやや苦しい。そのほか、第三短編集の『蚊』にも、名高い「日本読書公社」をはじめ、超常小説的な短編がいくつか収録されている。
 いまは亡きSFアドベンチャー誌に発表された作品を中心に九編を収録する『雨がやんだら』は、SF作家・椎名誠の原点であり、同時に「超常小説」の特徴がはっきりと刻印されている。なんの説明もなく「異常な状況」だけをぽんと差し出し、その背景を読者に想像させるという「いそしぎ」の手法は、やがて『アド・バード』『水域』『武装島田倉庫』の輝かしいSF三部作へと結実していくことになる。サイタロそば、火の輪めぐり、お召し送り、バランビラン楽器、六波羅町、鮫削海岸、猿辺川など、「いそしぎ」に登場する奇妙な造語・固有名詞は、現在にいたるまで継承され、一種の椎名マークになっている。本書で言えば、「中国の鳥人」の琵琶肉、双又虎石、臥蛇村、蒙昧狒狒樹、「たどん」の壁貼、氏田虫、「スキヤキ」の濡獏、スルガ式二重螺旋……。
 また、文庫版表題作の「雨がやんだら」は、『水域』の原型(というか、前日譚)ともいうべき作品で、椎名誠の頭の中にある「異形の未来」が、SF三部作のみならず短編まで含んでひとつの大きなシリーズを形成していることがわかる。前述「いそしぎ」のほか、「歩く人」(『雨がやんだら』)、「胃袋を買いに。」(『胃袋を買いに』)、「スキヤキ」(本書)、「日本読書公社」(『蚊』)などが、この椎名版未来史シリーズ(?)に分類できるだろう。ただしそれは、欧米作家の書く未来史物とはちがって、異形でありながら不思議な懐かしさをたたえた風景を見せてくれる。
 各編について詳述する紙幅がなくなってしまったが、今回、椎名誠の超常小説短編群をまとめて読み返してみて、そのレベルの高さにはあらためて驚かされた。筒井康隆が断筆中いま、この種の短編(それを「日本SF」と呼ぶにしろ呼ばないにしろ)をコンスタントに発表できる作家は文壇広しといえども椎名誠ひとりしかいないだろう。
 たしかに、写真集や対談集を含めればすでに百冊近い椎名誠の著書の中で、「超常小説」が占める率は圧倒的に少ない。椎名誠は第一にエッセイストであり、第二に私小説作家であり、第三に写真家であり、第四に映画監督であり、以下数項目を省略して十番目くらいにやっと超常小説家なのかもしれない。にもかかわらず、『アド・バード』の日本SF大賞が端的に示すとおり、椎名超常小説は日本SFの歴史を変えるだけのパワーとインパクトを持っている。『ねじのかいてん』の解説に書いたことのくりかえしになるけれど、SF読者としては、椎名誠に現実世界の旅を一、二回がまんしてもらって、まだ見たことのない世界を本の中で旅させてくれることを願うばかりなのである。



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