【9月8日(火)】
本を読みつづけているうちにお昼になってしまったので、ひさしぶりに黒のスーツを来て革靴を履き、森武志氏の告別式に出かける。森さんはタトル・モリ・エージェンシーの社長で、翻訳出版業界では知らない人がいない傑物。最近はあまりお目にかかる機会もなかったけど、社員編集者時代にはお世話になりました。まだ若いし、いつも異常に元気そうな人だったんですが。
護国寺で焼香をすませたあと、白石朗、小浜徹也と近くの喫茶店で森さんをめぐる昔話など。といっても、あんまり昔のことは知らないので、《本の雑誌》の宮田昇の連載に期待したい。あの連載、翻訳業界では話題の的なんですが、《本の雑誌》読者はどう思ってるんでしょうね。
4時ごろ家に帰って、さらに本を読む。名古屋でお目にかかった田中哲弥氏が、この日記を読んで、わざわざ《大久保町》三部作(電撃文庫)を送ってくれたので早速読みはじめる。そうか、大久保町って明石だったのか。うちは父親の実家が姫路だし、母親はしばらく明石の女学校に通ってたことがあるので、あの近辺の地名は懐かしい。
東野圭吾『秘密』は、娘の肉体に妻の意識が入ってしまう話。『スキップ』のバリエーションと見られちゃうのは不可避だけど、父親/夫の側から書いたのがミソ。いろんな意味でもてなしのいいファンタジーですが、結末の処理は東野圭吾らしく、じつにうまい。
二階堂黎人『人狼城の秘密 完結編』を読了。フランス編、ドイツ編の同型構造は(つづけて読む読者のことを考えると)ちょっと計算違いじゃないかと思ったんだけど(ドイツ編から読んだオレが悪かった気もする)、探偵編、完結編はめっぽう面白い。
この種の大ネタの場合、トリックの実行可能性より、むしろ動機の面で納得できないことが多いんだけど(「どうしてそこまでするかな」ってやつ。犯人に犯行の利益がまったくない『眩暈』が典型的な例)、ここでは名探偵に勝負を挑む名犯人を設定することでその問題を解決している。シャーロック・ホームズ対モリアーティ教授ですね。じっさい、小説をひっぱっていくのは冒険小説的プロットで、「驚天動地の大トリック」が明かされても、その瞬間に物語が収束することはない。「ロジックよりもトリック、トリックよりもプロット」っていう二階堂黎人の持論を体現する大長編なのである。
『聖アウスラ修道院の惨劇』の解説で、
じっさい、前二作と比較しても、本書における蘭子の名推理には論理的な根拠がやや薄弱な印象を受ける。あらゆる可能性を徹底的に検討した結果として犯人を指摘するのではなく、ほとんど冒険小説的な手続きによって明かされていく意外な事実の集積から、蘭子は一足飛びに真相を喝破する(もちろん、再読してみれば周到に伏線が張られていることに気づく仕掛けだが)。しかしここでは、解明されたトリックも、指摘される犯人も、プロットに奉仕する材料でしかない。二転三転するプロットがたどりつく驚くべき結末の意外性が、論理やトリックのレベルではなく、物語のレベルで、本書を本格ミステリたらしめている。と書いたけど、『人狼城』にもそのままあてはまるかも。
【9月9日(水)】
ようやく《本の雑誌》の書評をかたづけて、浦賀和宏『時の鳥籠』に着手したと思ったら、角川と講談社からまた書籍小包が届き、これじゃ読んでも読んでも終わらないぞ。篠田節子『弥勒』(長い)と山口雅也『マニアックス』(既読作品多数)を横目に、若竹七海『八月の降霊会』を先に読む。そうか、これは結局、《新本格ミステリー》シリーズには入らなかったのね。そのへんの経緯は《本の旅人》のエッセイに若竹さんが書いてたんでした。
キャラクターは魅力的で、会話も抜群。舞台劇っぽい書き方も成功している。最後はふつうとは逆方向の逆転なんですが、この方向で落とすにしても、もう一拍置くやりかたがあったんじゃないかと思いますね。手記以降の処理はやや不満。
【9月10日(木)】
『小説現代メフィスト』の最新号が到着。げげげ、この厚さはなに。原稿落とした人もいるはずなのに(笑)。
と思いながらぱらぱら立ち読みしていたところ、千街晶之が連載で匿名座談会問題に触れ、大森望(とO)と笠井潔の両方を批判している。若者の態度としてはきわめて正しい。
しかし、いくらなんでも、本格危機説の傍証として、出てないどころか読んでもない小説を持ってくるのはどうか。
と思ったら、いちはやく福井健太がここで批判している。千街批判になると急に歯切れがいいな、しかし(笑)。
「……にしても、あの4ページは相変わらずひどいね。せっかく休みにしたというのに、どっと疲れを感じてしまった。要するに千街の原稿なんだけど(後略)」っていうあたりの書きっぷりは、地の福井健太しゃべり口調が出ていて爆笑。
いや、福井健太じゃなくて千街晶之の話でした。わたしもたまたま、「ある賞の選考委員を務めている作家」から、「明らかに最近の「本格もどき」小説の強い影響を受けたと思しき応募作品が残っていた」という話は聞いているので、この一節の趣旨は非常によくわかるんだけど(そうでなくても、「この人に影響を与えた某作家」が清涼院流水であることは、千街晶之の読者ならほぼ自明でしょう)、「新人賞の最終選考に愚作が一本まぎれこんでいた」という(主観的)事実が、なぜ本格の危機を示す証拠になるのかさっぱりわからない。
出てから批判したんじゃ遅いことが清涼院流水でわかったから、これからは出る前に叩いておこうってこと?
そもそも「カンブリア紀説」は、愚作の存在を積極的に許容する論理なので、「選考委員をそこまで呆れさせるようなレヴェルの応募作」が、最終選考に残ろうが出版されようが、それは本格危機の証拠じゃなくて、繁栄の証拠なのである。10パーセントの傑作を支えるのは90パーセントのクズ。クズとそれ以外を分別する作業は重要だが、それを悲観する必要はないってのがオレの立場ね(千街晶之自身、「カンブリア紀」説を「「本格もどき」を含めたいろいろな小説が存在するほうが本格は栄えるはずだ、という立場である」と要約してるんだから、それはわかってるはずなのになあ)。
そもそも千街晶之が嘆く作品のようなものが出てくる自体は、『コズミック』が出たときからわかりきっていたことだろう。96年10月の時点で、オレはこう書いている。
しかし、裾野が広がるにつれて、新本格のジャンルとしての求心力は低下しつつある。もともと実体のないレッテルだったといえばそれまでだが、現在の新本格は、かつて(一部で)そう信じられていたような、「本格ミステリマニアによる、本格ミステリマニアのための本格ミステリ」とは確実に性格を異にしている。少なくとも、京極夏彦や森博嗣の作品に関するかぎり、「海外の本格ミステリ黄金時代の作品を読んで育ってきた作家たちによる本格復興運動」という側面はゼロに等しい。読者についても、子どもの頃ディクスン・カーやエラリー・クィーンを読みふけっていた本格ミステリおたくたちにかわって、たとえば綾辻行人の館シリーズではじめて本格ミステリに接したような新しい若い読者層が新本格を支えはじめている。ただし、その後の展開を見てみると、「浸透と拡散」に向かうベクトルと同時に、「深化と矮小化」に向かうベクトルも存在する(乾くるみ『匣の中』はその典型的な例だろう)。一般化方向とマニアック方向が入り乱れて混沌としているいまの状況をさして「カンブリア紀」と呼んだわけで、かつてSFがたどった道をたどっているとは必ずしも言えないのではないか。
その意味で、(新本格作家の中でも異端に属する)麻耶雄嵩の影響を色濃く受けてデビューした清涼院流水の『コズミック 世紀末探偵神話』(講談社ノベルス)が、(作品に対する評価はともかく)ある種エポックメイキングな作品であることはまちがいない。すでに新本格は、黄金時代の海外作品の模倣・引用から、自分自身を模倣・引用する段階にさしかかっている。麻耶雄嵩以降の新本格第二世代(と、ここでは便宜的に呼ぶことにする)作家たちににとって、新本格というジャンルは前提としてすでに存在するものであり、ジャンル小説である以上、それを踏まえて作品を書くのは当然の話。『コズミック』は極北に位置する例だが、今後その方向に拍車がかかるのは歴史的必然だろう。
綾辻行人、我孫子武丸、法月綸太郎をはじめとする第一世代の新本格作家たちも、それぞれ独自路線を歩みはじめ、いまの新本格は、七〇年代の日本SFが経験したのとおなじ「浸透と拡散」の時期を通過しつつあるようにも見える。(後略)
「カンブリア紀説」は笠井の「セルダン危機説」への反論として、SF評論家の大森望が提唱している。と書いてて、まちがいじゃないんだけど誤解を招くおそれがあるのでここでことわっておくと、べつに「セルダン危機説」に反論するために「カンブリア紀」と言い出したわけじゃない。この日記ではじめて「カンブリア紀」に触れたのは『'98 本格ミステリ・ベスト10』(3月20日発行)を見る前の3月10日。
最近、「いまの新本格はカンブリア紀である」説を唱えてるんだけど、最近の講談社ノベルスを段ボールにつめて10年後に開封すると、さながらバージェス頁岩ではないかと。『コズミック』『六とん』『歪んだ創世記』『Jの神話』『A先生』……。と書いてます。その直後に、笠井さんの「セルダン危機説」が出て、その正反対ぶりに笑ったわけですね。
しかし形態的に優れているからといって生き残るわけではないので、この多様性の爆発からなにが後世に残されるかははかりがたい。こうなったら、だれか本格ワンダフル・ライフを書くしか。
O 笠井潔は日本のSF史をふりかえって、「SF(的なもの)は勝利した」が「SF小説は敗北した」と総括し、いわゆるクズSF論争に触れて、この十年にも優れたSF小説は書かれているが、ジャンルとしての日本SFは弱体化していると書いています。この現状認識はほぼ納得できるんですが、弱体化の理由を『SF「のような」小説』の繁栄に求めるのは違うと思います。千街晶之は、「誰でもちょっと考えれば分かるだろうが、「本格」に「SF」を対置することには相当な無理がある」といい、「「本格」は「ミステリ」という第ジャンルの中の一小ジャンルであるのに対し、「SF」は大ジャンルそのものだからだ。「本格」に対置するならば、この場合は「ハードSF」でなくてはならないだろう。その点にさえ気づけば、「カンブリア紀説」を論破するのは難しくない」と書く。
『このミス』九八年版でも言った通り、SF小説の商業的行き詰まりは、本格SFだけをSFとして、周辺のSF的なものを切り捨ててきた結果だと思う。コアだけ残ればジャンルが命脈を保てるわけじゃないことはすでにSFが証明してるわけです。
笠井潔は、『SF「のような」小説」』がSFを衰退させたように、『本格「のような」小説』の増殖が本格を窒息させるというけれど、僕は反対だと思いますね。周辺にいろいろ変なものがあってにぎやかなほうが、ジャンルは繁栄するでしょう。
清涼院流水『コズミック』以降のメフィスト賞受賞作(すべて講談社ノベルス)みたいに、なんだこりゃ的な小説ががんがん出てくる今の本格状況はすごく面白い。だから僕は、笠井潔の「セルダン危機」説と反対に、「カンブリア紀の爆発」説(笑)。今の講談社ノベルスは未来のバージェス頁岩ですね。こんな変な生物が地上にいたとはとても信じられない、みたいな(笑)。
『本格ミステリ・ベスト10』が不幸だったのは、たまたまそういう「色もの路線」ばかり目立って、コアな本格の収穫が少なかった年にスタートしたことでしょう。
D 僕個人としては、今みたいにクズばかりだったら、本格なんか滅んじゃっていいと思う。そして十年二十年たって、また復活すればいいんだ。
O 僕はクズばかりとは思わないな。たしかに十年前ならまず本にならなかったよう
な小説がメフィスト賞からどんどん出てるけど、善し悪しはともかく、それぞれ突出
した部分があるでしょう。パターン化された読み捨てトラベルミステリーに比べれば、個性豊かで愛嬌があるじゃないですか。
D Oさんのように、わかっていて面白がるぶんにはいいんだけど、こういうのばかり読んでミステリーとはこういうものだと固まっちゃった読者が、フィードバックして大挙して作家になったらイヤだなと思う。
O それは大丈夫。種類がいろいろなのがカンブリア紀のいいところだから。たとえばこの2月には、メフィスト賞の四、五、六回の受賞作が三点同時刊行されたでしょ(乾くるみ『Jの神話』、浦賀和宏『記憶の果て』、積木鏡介『歪んだ創世記』)。
こののどれか一冊読んで、「これが今のミステリーか」と思う人なんかいませんよ。だって変すぎるもん(笑)。まあ「こういうのもアリか」と思う人とか……。
【9月11日(金)】
iMacを買って以来、さいとうよしこはイーサネット構築に燃えている。5ポートのハブ買ってボード2枚買って、475と630とiMacをつなぐ計画らしいが、オレは無謀だと思うね。
案の定、システムの入れ替えだのなんだのでたいへんな苦労をしているらしい。と思ったら今日は秋葉原に行って、iMac用のメモリ128メガを買ってきた。オレのTP535だって48メガしか積んでないのに。おもちゃのiMacが160メガかよ。そんでPPC266メガヘルツですか。やれやれ。でもいろいろいじっているうちに630はインターネットにつながんなくなったらしい。あと10ページ印刷するのにひと晩かかったりとか(笑)。
Mac2台のとき、Apple Talkで家庭内LAN張ったことはあったけど、けっきょくケーブルが邪魔くさいのと、FD使うほうがはやい(笑)という理由でやめちゃったんでした。
まあしかしイーサでつながると便利なのでがんばってもらいたいものである。
わたしはもうパソコンのことで苦労する気はないからなあ。あ、しかしIE4.0がキャッシュを勝手に消してくれやがったので、この4カ月貯めた分がパー。もっとはやくconvertしておくべきだった。くそ。
Remakeの翻訳を再開しようと思ったけど、論争系の日記を書いているうちに3時間ぐらいたってしまう(笑)。
問題は反論を書いても、たしか千街晶之がウェブを読める環境にないってことかな。だれかファックスしてあげてください。