【9月3日(木)】

 笹本祐一の『彗星狩り』(ソノラマ文庫)をようやくまとめて読む。面白いじゃん。『星のパイロット』は?だったけど、なるほど、あれはたんなるプロローグだったのね。三村美衣が好きだという理由も納得。いちばんキャラ立ってるのがジェニファーだもんな。気の強い女が元亭主をあしざまに罵倒する話が三村美衣のツボだったにちがいない(笑)
 それにしても国産のSFはヤングアダルトレーベルのものばっかりだな、最近。あ、《ダーティ・ペア》と《ビッグ・ウォーズ》読まなきゃ。


【9月4日(金)】

 4時から《本の雑誌》編集部で文庫ベスト100座談会。いつものメンバーなので、小説トリッパーの文庫SFベスト100(朝日文庫『この文庫が好き!』収録)で選んだような現代SFでは上位進出が望めないことは見えている。そこで中年対策をばっちりほどこし、往年の名作に絞ってリストを出した作戦が図に当たり、『マイナス・ゼロ』と『火星年代記』で満票(4票)を獲得。ベスト5に2冊送り込むことに成功したので、とりあえず使命は果たしたぞと。

 座談会の合間に、このミス覆面座談会のB氏(今日はC氏だけど)から覆面サイドの状況を取材。年末の『このミス』でA氏の反論と笠井さんの再反論が載るらしい。
 そのB氏は別件の約束があって去り、残り三人で池林房に流れる。話題は最近の新刊とか、協会賞予選委員人事とか。予選委員は協会員に限られるんじゃないかと前に我孫子さんに言ったような記憶があるけど、考えてみたら北上次郎は推理作家協会には入ってなくて、こないだまで予選委員やってたわけですね。資格に関する規定はとくにないのかも。協会賞と乱歩賞の予選・本選委員は協会の理事会で決まるらしい(実質的には常任理事会か)。


【9月5日(土)】

 噂の日本推理作家協会会報9月号が到着。
 こないだ法月さん本人から電話で聞いた投稿『匿名座談会をめぐって』が掲載されている。クローズドな場所に発表されたものなんで、ウェブ上で話題にするのは多少躊躇する部分もあるんだけど、法月さんから引用許可をもらったので、異論のある部分についてここで私見を書いておきます。
 タイトルの『匿名座談会』は、言うまでもなく、『この文庫がすごい! 98年版』(宝島社)に掲載された《『このミス』名物・匿名座談会上半期「出張」バージョン ミステリーファンのためのワイドショー講座》のこと。座談会参加者は、A、B、D、O、Sの5名で、このうちB(茶木則雄)とS(関口苑生)はミステリマガジンの今月号で正体を明かしている。Oはもちろんオレね。
 OとSは『このミス』'97版からの参加だが、Oの登場時には、「B この季節になると知恵熱を出すCさんに代わって、今年はゲストにO森某さん(仮名)に来てもらいました」、Sの登場時には、「B 関口さんは今年一番の帯は何だと思う。S この次、わたしが書くやつですね。」という具合に、正体を読者に知らせる配慮が最初からほどこされている……ってことは一応ことわっておきたい。Bの正体も、《小説推理》の「駄サル日記」と併読している読者にはほぼ自明。AとDは、マニアックな読者なら見当がついてるかも……という感じですか。
 これに対する批判を笠井潔がミステリマガジン誌上で展開しているのはごぞんじのとおり。法月綸太郎の『匿名座談会をめぐって』は、三つのポイントに絞って、座談会の発言内容を批判している。

 第一点、「黄色い部屋」の解釈をめぐる問題については異論なし。笠井さんに対するAさんの反論を待ちたい。  第二点は、東京創元社『'98 本格ミステリ・ベスト10』収録の我孫子原稿、貫井原稿への言及について。その前半部分(座談会側は、ミステリー書評の現状に対する作家側の不信感を無視しして揚げ足とりに終始している)はまあそのとおりでしょう。書評のありかた問題に関しては我孫子さんとさんざん意見交換してきてるので、今回はパス。  しかし、法月原稿のうちで首をひねるのは次の一節。

 私は以前から、特定の評論家が闇カルテルを結成し、談合によって合意ラインを設定、右へならえ式に書評媒体を支配しているのではないか、という疑いを持ち続けてきましたが、我孫子氏のエッセイ(引用者註:東京創元社『'98 本格ミステリ・ベスト10』収録の「本が人を殺す!?」を指す)を読み、改めてその感を強くしました。これはバブル期の地上げの手口のようなものです。投機筋の思惑で、これと目を付けた物件に紋切り型の賛辞を浴びせかけ、評価を吊り上げることによって生じる利益の上前をはねて、あるいは、不当な安値をつけて買い叩く。その場限りの言いっ放しで、後は野となれ山となれ、というのがお決まりのパターンです。付和雷同を合言葉に如才なく立ち回るだけで、煎じつめればミステリーを利権の材料としか見ていない。そうした詐欺まがいの手口に泣かされた被害者は少なくないはずですが、このような書評家の無責任な「独断と偏見」にミステリー・シーンの舵取りを任せることに不安を感じるのは、私の杞憂にすぎないでしょうか?
 って、この陰謀史観はギャグなんでしょうか。いや、話としてはすごく面白いんだけどさ。
 そもそも、「評価を吊り上げることによって生じる利益」とか、「利権」とかっていうのがよくわからない。ミステリ書評業界における利権といえば、一にレギュラー媒体(とくに新聞・週刊誌の常設書評コラム)、二に新人賞予選委員、三に文庫解説……ってとこだと思うけど(ちなみにこれらが「利権」になるのは、定期収入に結びつくからですね)、みんなが誉めるものを誉めるとか、みんながけなすものをけなすっていう行動は、こういう「利権」には結びつかないでしょ。
 だいたい「談合」がきちんと行われてれば、とんちんかんな書評はもっと減ると思うんだけど(笑)。どこが面白いんだか自分ではよくわかんない書評を受注したとき、「あれはどこが面白いの?」とか電話で取材してくる人もたまにいますが、この種の情報交換はむしろもっと必要だと思う。
 オレ自身、冒険/ハードボイルド系の書評家陣のあいだでコンセンサスが形成されていく過程には興味があるんだけど(たとえば『このミス』では、毎年、なんとなく「国産冒険系統一候補」が選ばれているような印象がないか?)、そばで見てると、そこに積極的な意志は働いてないみたい。北上次郎が絶賛してたら、とりあえずその本を読んでみようっていう程度の影響はあるようだけど、「あいつが誉める本は死んでも誉めない」的な人間関係もあるし(笑)、むしろ付和雷同型の人は少数派なのでは。
 結局、日常的な接触がないと、「おれの知らないところで談合している」と見えやすいだけのことじゃないですかね。もちろん、パーティや飲み屋での情報交換はあるだろうし、ワセダミステリクラブ閥が一大勢力を構築している事実はある。書評業界が拡大ミステリ研的な体質を色濃く残しているのも否定できないと思う。でも利権をめぐって談合するのは困難でしょう。

 つづいて第三点、「若手評論家に対する批判を並べた箇所」について、
 これは権威をカサに着た弱い者いじめ、大部数に乗じた少数派の声の圧殺以外の何物でもありません。従来のぬるま湯的な寡占体制に基づく利権の構造に寄りかかって甘い汁を吸っていた評論家が、新しい書き手の出現に戦々恐々として、既得権益を守るため、芽のうちに摘み取ろうと焦っている姿が目に浮かぶようです。本来、批評水準の向上のために率先して新しい才能を見出し、対話を通じて切磋琢磨していくべき立場にある人たちが、露骨な嫉妬と縄ばり意識を隠さずに、目ざわりな新人を排除しようとする。そういう人たちに限って、「権力の横暴に対する弱者の怒り」といった文句を連発したがるのは、どういうわけでしょう」?

 と法月さんは書いてるけど、座談会中、「若手評論家に対する批判を並べた箇所」に該当するのは、

 むしろ、今の探偵小説研究会の連中のほうが笠井潔の引きで、共著にせよ、すぐ本が出せるじゃないか。僕らが駆け出しのころ、ホントそんなチャンスなかったもんなあ。しかも彼ら若手の評論を読んでも、僕の勉強不足もあるかもしれないけれども、たとえば「脱コード」とか、彼ら独特の方言をやたら使って、それを自明のこととして論を進めてゆくから、何が言いたいんだか、よくわからない。
 それは、島田荘司や笠井潔の探偵小説論を、読者は当然読んでいるだろうという前提からスタートしているからですよ。「本好きにはたまらない」式の安直なコピーを連呼するのとは別な意味で、それも一種の手抜きであると思います。そういう読者を想定した本に書いているんだから、べつにいいんだけど、それで比較的原稿料の高い一般誌からお呼びがかからない、したがって新人賞の下読みのようなおいしい仕事が――本当においしいかどうかは措くとして、回ってこないと周囲が義憤を抱いてもしょうがない。
 という一節だけ。この部分は明らかに、『本格ミステリの現在』に対する批判でしょうね。専門書を読んで専門的だと嘆いてもしょうがないだろうに。しかも嘆いてる人が専門家だったりしてわけがわかりませんね。正直すぎるというかなんというか。したがって、このやりとりに対して、法月さんが、
「彼ら独特の方言」という居直り発言も、解せないものです。勉強不足と自覚しているのに、どうしてこういう言い回しが出てくるのか。読者を見くびるにもほどがあります。素人ならともかく、とてもプロの評論家の言葉とは思えません。そうでなくても、ここ数年来、従来のミステリー批評の語彙ではカバーしきれない新しい作品が続々と生まれているのは、だれしも認めざるをえないところです。だからこそ、批評の言葉もリニューアルされなかればならあいはずなのに、そうした真摯な努力を怠り、身内の狭いサークルの噂話と楽屋落ちでお茶を濁しているようでは、じきに「淘汰」されるのがオチでしょう。
 と反論するのはよくわかる。
 もっとも、一般誌の書評に求められている機能は、「だれにでもわかるように、面白かったか面白くなかったかを書く」ことだったりするわけで、編集者から「読者を見くびる」ことを日常的にに求められている(「もうちょっとわかりやすく書いてください、うちの読者は本読まないんで」と要求される)書評家の実感からはかなりのズレがあるかも。

 ただ、ここで注意しておかなければならないのは、「それで比較的原稿料の高い一般誌からお呼びがかからない、したがって新人賞の下読みのようなおいしい仕事が――本当においしいかどうかは措くとして、回ってこないと周囲が義憤を抱いてもしょうがない。」というA氏の発言が、匿名座談会中にも引用されている我孫子エッセイの一節、
 さらに困ったことに、数多くあるエンタテインメントの文芸賞の予選選考というのも、その多くがこういう人たちに任される。金になるだけでなく、隠然たる影響力を行使できる立場だ。それが創元の評論賞あたりから出てきたような才能の持ち主ならいいのだが、あいにくそういったこれまでの『業績』の積み重ねのない若者には『おいしい仕事』は回らないようだ。
 を直接受けたものだということ。したがって、
 そもそも、若手評論家に一般誌のお呼びがかからない、という決めつけは偏見だと思いますし、仮にそうだとしても、それは書き手の能力の問題というより、単に既成の人脈から外れているせいで、登用の機会が奪われているだけではないでしょうか。
 という批判を法月さんがA氏に向けるのは筋違いでしょう。A氏は我孫子さんの言葉をパラフレーズしている(あるいは、そのつもりでいる)だけなんだから。
 このあとすぐつづけて、
子飼いの手下にばかり仕事を回して、猿山のボスを気取っているのは、それこそ「隠然たる影響力」が行使されている実例だと思うのですが
 というのも、ちょっと書きすぎじゃないですかね。こういう、「読む人が読めばだれのことを言ってるかすぐわかる」式の書き方自体がギャグなのかもしれないけど(わざと実名を挙げずに匿名座談会メンバーを批判する?)、協会報に書いたんじゃギャグにならない気が。
 逆に言えば、「子飼いの手下」に仕事をまわす行為自体、「率先して新しい才能を見出し、対話を通じて切磋琢磨していく」ことに該当するかもしれないわけで、この文脈で批判してもしかたがないし、批判するなら名前を挙げて結果を批判すべきだと思う。
 じっさい、Bさんサイドに立てば、「子飼いの手下にばかり仕事を回して、猿山のボスを気取っている」のは笠井潔じゃないか、っていう反論だって当然予想されるわけで(あ、べつにBさんがそう言ってるというわけではまったくないので誤解なきよう)。
 まあ小説トリッパーの短編で、笠井さんからまわってくる仕事だけで手いっぱいになる愚痴を書いた法月さんとしては、高度な両面批判なのかもしれないけど(笑)。

 しかしそれよりも、オレ的には、「探偵小説研究会の連中」とか「若手評論家」とかでひとくくりにしちゃうこと自体、わりと違和感がありますね。匿名の人をひとくくりにするのはしょうがないにしても(笑)、「若手」だってそれぞれ芸風が違うんだからさ。

 我孫子さんとの意見交換のときも書いたけど、私見では、評論を書く才能と、書評を書く才能とは必ずしも一致しない(もちろん一致するケースもある)。
 評論的な書評を求める人と、エッセイ的な書評を求める人は両方いて、我孫子武丸や貫井徳郎は、「エッセイ的な書評はもういらない」と言ってるわけですが、残念ながらそういう読者は多数派ではないらしい。
『'98 本格ミステリ・ベスト10』は、まさにそうした少数派のための媒体なんだろうけど、そのわりに書評は少ない。ベスト10の10作品の解題が、たぶんもっとも書評に近い文章だろうけど(それぞれ400字×5枚弱)、その10本でさえ、とてもひとくくりにできないぐらい芸風が違う。
 S氏の言う「探偵小説研究会の連中」的な書評の典型として想定されるのは、たとえば椎谷研悟氏の『續・日本殺人事件』評だろう。
「これは明らかに探偵の介入する本格ミステリ作品内における解決の決定不能性を射程にいれて書かれたものだろう」とか、「その自己言及的な運動――クラインの壷のような空間の歪みを経て「実在の船」は大文字の作品へ向かう」とか、「思索の涯に見出されたものは、本格の可能性である」とかの表現は、明らかに特定読者を対象としている。
 その一方、鮎川賞予選選考の内幕が大部分を占める佳多山大地氏の『未明の悪夢』評は、ほとんど(茶木則雄・西上心太系の)エッセイ書評で、しかもエッセイとしての出来はあまりよくない。というか、「担当分のうち『未明の悪夢』に上から三番目の点をつけ」とか書かれると、やっぱり気になるじゃないですか。
 エッセイ系でも、鷹城宏氏の『メルカトルと美袋のための殺人』評は、この10本の中では唯一(アニメ)おたく寄り。しかし麻耶雄嵩におけるおたくネタ分析は、どうせ書くならもうちょっとちゃんとやるべきで、これじゃ最近のアニメに疎い人にはなんのことやらでしょう――という問題点はあるものの(ちなみにアニメ誌の書評欄ならこれでオッケー)、前半の引きはうまいし、ミステリ的蘊蓄をちりばめつつも、専門誌以外でも通用する言葉で書かれている。
 千街晶之氏の『冤罪者』評は、いかにもそつがない教科書通りの書評で、新聞に載っていてもおかしくない。年齢のわりに言葉遣いが古臭いけど(「冤を雪ごうとする」「些かも」「十全の効果」」)、それも持ち味か。
 あらすじを含めて本の内容を紹介するという縛りがあって(←推測)なおこれだけ違うんだから、「創元の評論賞あたりから出てきたような才能の持ち主」ならミステリ書評をまかせて安心だって説(我孫子さんや法月さんがそう主張しているわけではない)にあんまり根拠があるとは思えないし、まして「新人賞の下読み」に向いてるかどうかは全然べつの問題でしょう。
 ちなみに、もしぼくが雑誌編集者で、一般誌の書評を依頼する筆者のショーケースとして『'98本格ミステリ・ベスト10』を読んだとしたら、やっぱり最初に名前を挙げるのは法月綸太郎か巽昌章でしょう。あと趣味的には鷹城宏かな。
 パイが決まっているところへ新人が食い込んでいくためには、2枚、3枚の原稿の中に「こいつ面白いから書かせてみよう」と思わせるものがないとダメなわけで、「既成の人脈から外れているせいで、登用の機会が奪われている」とばかりは言えないんじゃないすかね。いや、もちろん、いまの書評家たちがみんな優秀だとは全然思わないし、匿名座談会メンバーが努力と研鑽でいまの地位を築いたとは必ずしも言えないだろうけど(たとえばオレとか)、既得権益にあぐらをかく既成書評家たちをその座から引きずり下ろすための努力(対編集者戦略としては、30枚50枚の評論ではなく、短い書評で自分をアピールしなければならない)がじゅうぶんになされているとも思えないので。

 いまの書評業界の最大の問題点は、評論的な仕事が求められる場にまでも、エッセイ的な仕事が本領の筆者が起用されるケースでしょう。エッセイ書評のために用意されたスペースにエッセイ書評を書いていると言って怒るのは筋違いだけど、評論用のスペースにエッセイしか書けない人とかは、実名を挙げてどんどん批判すればいいし、そこから書評のクォリティの向上も生まれるんじゃないですかね。  たとえばクーンツ『ドラゴン・ティアーズ』の解説は他人の解説の引き写しばっかりで自分の意見がない(しかも事実誤認がある)とか、そういう具体的な批判(あくまで一例なので他意はないっす)なら効果があると思うけど、「猿山のボスを気取っている」とか言っても感情的反発が生まれるだけなのでは。

 しかし考えてみると、怒ってるんだぞ、という意志表示としてはこれでいいのか。けっきょく文章でいちばん伝わるのはそういう種類の情報なので、オレが気にしてるようなことはみんな瑣末な問題なんだよな。それが気になるっていうのは、たぶん、「自分の作品が書評される」という立場に身を置くことがないから、見当はずれの書評に対する怒りを共有できないせいかも。うーん、どうなんだろう。訳書がけなされても他人事だしなあ。


 新宿コマ東宝で「スプリガン」の初日。場内は満席に近い状態で、高校生・大学生が多いらしく、ファーストフードの袋がやたらにうるさい。次の回を通路で待つ若者たちの話し声でせりふが聞きとれなかったりとか、もう最低。エンディング・クレジットのあいだにどんどん入ってきて、オレの前を無理やり通っていくし。いいかげんにしろ。
 予告編で見たときは全然ダメなんじゃないのと思ってた「スプリガン」ですが、そうかこれは「レイダース」+007だったのね。アクションシーンは悪くないし、日本でアクション映画撮ろうと思ったらこうするしかないでしょうって感じ。しかし、原作とは全然キャラが違って、マンガ的なギャグをきれいにすっとばしてるので、17歳って設定がかえって浮いちゃった感じ。ジャンと優の関係もストイックすぎでしょう。
 おたく的な部分を切り捨ててハリウッド映画に接近するって意味では、「Ghost in the Shell」に近いかも。

 映画のあと、セガサターンマガジンの人と落ち合って、一時間ほど話をする。悪口を言わせよう言わせようとしているように感じたのは気のせいか(笑)
 終わってから馬場に出てユタ。見方によってはこれも談合例会だよな(笑)。特定の作品(『火星夜想曲』とか)の評価を吊り上げてそこから生じる利益を……って全然成功してないけど(笑)。星雲賞さえとれないくらいだから影響力ゼロなのか。悲しすぎる。
 だいたい「ダーク・シティ」で評価が一致して驚いたくらいだから、談合しても対立点が明確になるだけなのである。『レッド・マーズ』も激しく意見が割れてて、とても統一候補になりそうにない。なんか、文句つけるために集まってるような(笑)

 あとからやってきた福井健太が最近の新刊について例によって大胆なことを言ってたような気がするが、まあいつものことですから。林くんは「これが噂の……」と感心していたらしい(笑)。


【9月6日(日)】

 昨日からひたすら読書。
 キム・スタンリー・ロビンスン『レッド・マーズ』上下(創元SF文庫)、リンダ・ナガタ『極微機械ボーア・メイカー』(ハヤカワ文庫SF)、とみなが貴和『セレーネ・セイレーン』(講談社X文庫ホワイトハート)、松尾由美『留菜子のキッチン』(講談社)、、荒巻義雄『響かん天空の梯子』(徳間書店)……。
 SFばっかりで疲れると西澤保彦の『実況中死』に浮気したり。カバーは海洋堂の嗣子ちゃんフィギュアで、カバーをはずすとアボくんもいるぞ。あ、作中に、「大森望はマンガの女性キャラの名前からとった」とかいうセリフが出てきますが、正確には少女マンガの男性キャラっす。
 そうそう、小説すばるの京極夏彦「夜尿中」を読みかけたまま、途中で忘れてたんだけど、火星で疲れた頭を休めるためにひっぱりだして最後まで読んだら、なんの脈絡もなく(笑)大盛望ちゃんが登場してびっくり。古屋兎丸にイラスト描いてもらってるし。うらやましい……って違うか。


【9月7日(月)】

 さらに読書をつづけ、並行して原稿を書きはじめる。なんか頭が痛くて調子が出ないのは天気が悪いせいか。涼しいのはいいんだけど。それとも本の読み過ぎかもしれない。うーん。
 疲れたので山田正紀『長靴をはいた犬』に逃避。あまり逃避にならなかったかもしれない。浅暮三文『ダブ(エ)ストン街道』は読み方のコツをつかむと快調。わりと好み。


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